「俺はあいつほどじゃないから」の意味のなさ。

酒やめて、2746日

アルコール依存の普遍的な基準とは?

ちょっと前に「どこまで飲むとアルコール依存症?  お酒を飲むと態度が変わる、昼から飲む、二日酔いに迎え酒……。」という記事がネット上にアップされていました。現代ビジネスの記事で、アルコール依存と判断されるケースを列挙しています。

ただ、アルコール依存症かどうかということに対して個別事例を示すのはあまり意味がないと思うのですよ。意味がないどころか、「俺はそこまで行っていないから」というふうに「飲む材料」にされてしまいがちです。

私自身もアル中の個別事例として、周囲に「あいつほどひどくないから」という飲む材料を与え続けてきました(参考「最底辺だからこそ見えていた、アル中という底辺のなかのヒエラルキーの超くだらなさ」)。そして今も、「昔のあいつほど……」と安心材料をもたらしています。

さて実は、この記事は私がX上で勝手に断酒仲間認定させていただいている方のポストで知りました(鍵垢なのでお名前とポストは引用しませんが)。

その方は(記事そのものよりも)コメント欄が参考になるとして、「このコメントを読んで自分の心がザワつくか」という依存の基準を示しています。

同様にアル中大先輩の中島らも先生も、著作『今夜、すべてのバーで』で「基準」を示しています。以前もちょっと触れましたが(参考「日本は本当に「ビール街」と「ジン横丁」の社会になってしまったんだなあという話」)今回は当該箇所を紹介します。

アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ。おれもまさにそうだった。(中略)たとえば「ナイトキャップ」的な飲み方は、量の多少にかかわらず、行動原因そのものがすでにアル中的要素に支えられている。アルコールが眠るための「薬」として初手から登場するからだ。薬に対して人間の体はどんどん耐性を増していくから、量は増えていく。そのうちに、飲まないと眠れないようになる。この時点で、「手段」は「目的」にすりかわっている。

(引用前掲書 改行などは引用者都合)

「酒飲まないと眠れない」とはよく聞くフレーズで、うちの父も言っていましたが、まさに「手段」が「目的」にすりかわったがゆえのフレーズでしょう。

自分で判断することが求められている

ともあれ、このように普遍的な基準が示されている。後は、これを適用するかしないかを考えればいいだけで、「あいつほどひどくないから」といった相対的な基準は意味がない。普遍的な基準をもって依存症かどうか、その上で酒をやめるかどうか決めればいいと思われます。先に挙げた断酒仲間も「自分の気持ち」の重要性を強調していました。

その上で、飲むという選択肢も当然あると思うのですよ。それはその人が置かれた状況によります。私の場合、酒をやめられたのは「自分の置かれた状況が飲み続けることを許さなかった」からです。

これまでの日本であれば、飲み続けていても大丈夫な人も多く、というよりもそれがメジャーだったので、それもまた先に挙げた「あいつほどひどくない」と同様に、飲む飲まないの判断材料になったりしていました。

ただし、いつも書いていて恐縮ですが、今、社会は「死ぬまで働け」になっていますし、上の世代とも同じ基準では考えられない。

だからやっぱり、普遍的な基準を持って「自分」で判断することが必要なのではないかと考える次第であります。

カテゴリ別インデックスページはこちらです。

にほんブログ村 酒ブログ 禁酒・断酒へ
にほんブログ村

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする