酒やめて、1544日。
医療関係者には「健康」が至上価値!?
酒やめて、基本的にはまったくの健康体になったのですが、悪玉コレステロール(LDLコレステロール)値だけが高止まり……というか異常値といっていい値を示し病院に行っていることは、このブログでも何度も書いていて恐縮です。そしてそこで、食餌指導なるものがなされるわけですよ。で、とりあえず甘いものは我慢し、何とか112……といっても健康体の方にはわからないでしょうが、正常値の上限くらいまで抑えこむことに成功しています。
それにつけても思うのは、指導の際、管理栄養士さんなどは、まったくもってこともなげに、じゃあ甘いものは控えめに、とか、夕食のときご飯二杯ですかそりゃ食べ過ぎですよとかって言うのですね。親身になってくださるのは本当にありがたいのですが、何かそこに違和感を覚えてしまいます。
これはお医者さんもそうだし看護師さんもそうだし、栄養士さん含むすべての医療関係者に共通したものだと思うのですが、健康というものを至上の価値と考えているわけです。でもそれは一般人にとっては、ちょっと違うのかなあと思ったりもするんですよ。申し訳ないけど。
我々一般人は――みんながみんなかどうかは知りませんけれども、少なくとも私は、健康であることが至上価値ではなく、健康でどこでも行けるとか健康で快適に過ごせることが至上価値なのですよ。そして快適のなかには、「飯くらい自由に食わせてくれよ!」が含まれるのです。この辺に若干の齟齬があるのかなあと考えてしまいます。
でも、ですね、それが「自由」にならないのですよ。これは悪玉コレステロールが高い人に限らず、ある程度年齢がいったすべての人にとって、です。人間、加齢とともに代謝が落ちるので、健康体とされていてもある程度食事には気を配らないといけないわけですよね。それがすごく辛いといえば辛いです。
でも実は、断酒者はそれがやりやすい、ということを言いたいのであります。
欲望を抑え込めるのが「諦め」はあるから!?
それは、断酒に伴いある種の「諦観」が生まれ、まあそんなものかなあと受け入れることができると言ったらいいのでしょうか。
映画『セブン』じゃないですけれども、人間には「業」に近いものとしての欲望がありますよね。その欲望の封じ込めというものが酒やめてわりに簡単になった、と思います。それもまた断酒の効用、といったものでしょうか。
それは、「自制」ということとはまた違うのですね。
食べることを「自制」するというのは、なんというか科学的アプローチであり、ある種倫理的アプローチかもしれません。断酒者の場合、というか少なくとも私の場合、そうした高尚(?)なものではなく、まあ食べられないのなら仕方ない、という諦観アプローチです。なにしろ、一番の執着の対象である酒をとりあえず諦めているのだから、他のものを諦めるなんて朝飯前なのですわ。
そしてそれが、結果的に健康をもたらし、精神面を含め人生を快適にするといったところでしょうか。
そう考えると、この「諦観」というのは非常に重要な概念(?)であり、これを手に入れたことはそのまま人生好転につながっているとも言えます。すべてにおいて欲望に固執することなく、まあそんなもんかと思って生きていられるのです。
とまあ、私事でなんだかよくわからない話を長々と述べてきましたが、要は、断酒すれば心映えが変わってきて、それを武器にできるということです。