酒やめて、2170日。
無意味に煽ってくるのはたいていおっさん
煽り運転が問題になっていますが、昔に比べればずいぶん減ったと思います。よく若者ガ―などと言いますが、前が詰まっているのにもかかわらずやたら車間を詰めてくるような状況判断ができない輩は、たいていはヘッドライトが曇ったようなクルマに乗っている中高年あるいは高齢者です。
ちなみに前が詰まった状況ではないですが、海沿いのぐねぐね道で、WRX STiがやたら詰めてくるので道を譲ったら、リヤに「(旧)もみじマーク」が貼ってあってびっくり仰天したことがありました。高齢者が元気な一面でもあります。
確かに昔は、若者ガーというのはあったと思います。私が免許取ったばかりの頃は、道は「戦場」でした(大げさ)。とにかく他車よりも前へという妙な理屈が路上を支配していて、それができないとヘタレ扱いされました。今も昔もヘタレであるところの私が右折待ちを慎重にしていたら、隣に乗っていたヤンキー系サーファー(参考「「毎日飲んでりゃ……」の持つ重大な意味を、40年後に知った愚か者がいますよ」)が「今の(クルマの切れ目)で500回は行けた」などと、黄金聖闘士みたいなことをやれと言ってくるのでした。
それくらい、昔の若者にとっては、道という場は、己のレゾンデートルを証明する戦いの場(大げさ)であり、ヘタレは許されなかったのです。
これには理由があって、昔のソリッドな社会システムでは、若者は「下っ端」から始めなきゃいけないわけですよ。今みたいに大学生で起業なんてできないですから。そうすると自分が力を誇示できる場所は道でしかなかった。といった側面は確かにあったと思いますねー。
そして今のイキリ高齢者は、そうした世代がそのまま歳を取った教養のない輩、というふうに規定することもできそうです。
ジェントルでロジカルな世の中にアダプトするために
その点、今の若者は無駄にイキリません。一緒に仕事をしていても声を荒らげるなんて場面に出くわしたことはまったくありません。声を荒げるのは私たちよりも上の世代で、なぜかというとそれが有効だと思っているからでしょう。声を荒げて誰かに言うことをきかせた、自分の思い通りにできた「成功体験」を積み重ねてきたのですね。
人類史上、その手のことが有効だった時代が、おそらく狩猟時代からずーっと続いてきた。ところが今は、コンピュータで仕事をすることが多くなっていて、Z世代ならまさに生まれた時からそうです。なので、コンピュータ相手に声を荒らげてもしかたないし(たまにそういうおっさんはいますがw)、したがって成功体験は生まれない。だから今の若者はジェントルでロジカルなのだ、というのが私の仮説であります。
で、そうした世代が社会の中核を成すと、世の中ますますジェントルでロジカルになり、コンプライアンスとも相性がいい。そのような状況に、ロジックや真実よりも、声を大きくして自らのイデオロギーを主張したいオールドメディアが「人間性の喪失ガー」と言って抵抗しているのが、今の時代なのかもしれません。
そして、「声を荒げる」「威嚇する」といった人間の人間性ならぬ動物性のようなものが社会の中でアドバンテージを認められなくなっているのにも関わらず、人間の大脳の海馬を引きはがし、動物の脳をむき出しにするのが、そう、ご存じ、酒さんであります。でもってこれはなにも「酔っているときに動物になる」ということではないのです。
この辺はいつも書いていて恐縮なのですが、個人ブログはループブログといいますし、大切なことなので何度も言いますという格言(?)もあるので書きますが、酒は、酒を飲んでいないときでも人間の脳をだんだん動物的……と言って悪ければエモーショナルにします。さらに「あの人は酒を飲んでるから怒りっぽい」だったらまだ良くて、人々の意識が「酒を飲んでるから怒りっぽいに違いない」になりつつあるのが非常に怖いところです。世の中がジェントルかつロジカルだと、そうした傾向はますます強くなっていくのです。
むろん飲酒習慣があってもジェントルな人はたくさんいますし、私の周りにもいます(もちろんそうじゃない人もいます)。でも、そのような酒と性向の関係が、誤解も含めて常識化すると、酒飲んでいることそれ自体が社会生活を送る中で不利に働いていくことでしょう。
と、ここまで書き連ねたことは仮説であり、断酒者理論かもしれませんが、その仮説を信奉してして断酒を続けるのも、ジェントルでロジカルな社会にふさわして生き方であることは真実でしょう。
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