酒やめて、1714日。
江戸時代の町人の「飲み事情」とは?
ちょっと前の『東洋経済オンライン』に「飲酒量が多かった江戸時代、酒はいくらだったか」といった記事が掲載され、ネット上で話題になっていました。江戸時代の飲酒事情レポートです。
記事では江戸の飲酒文化とそれにかかるコストを検証するにあたって、現代の貨幣価値に換算していましたが、ただ、これは大変難しいことのようです。映画『決算! 忠臣蔵』でも「現代に換算すると、大石内蔵助の遊里遊びは……」としていて、それ自体は非常にわかりやすかったのですが、違和感を覚えた「換算」も多々ありました。
それはそうであって、食物などは現在とは生産コストがまるで違い、一方で手間賃的な人件費は非常に安かったので、いろいろ齟齬が出てくるのは仕方ないのでしょう。また江戸末期に日本から大量の金が流出し、その後に金本位制の貨幣制度が確立したという歴史的経緯も関係しているのかもしれません。
それはともかく「江戸っ子は宵越しの金は持たない」じゃないですけど、極端なハナシ、江戸の町人はその日の稼ぎをみんな飲んでしまったのですね。その酒量は多く、以下のようなものだったと記事では紹介しています。
元禄年間(1688~1704)には上方から21万石の酒が入ってきていたという。当時の人口を70万人とすると1人あたり年間54リットルも飲んでいたことになる。一升瓶に直すと30本だが、70万人には子どもや下戸も含まれるから、それを省いたとすると江戸の人々はかなりの量を飲んでいたわけだ。
(引用前掲メディア)
要はそういう「飲む」生活が機能していたわけですよ。当時は町人に税金を納める義務がなかったので、それでもよかったのかもしれません。ただし、むろん江戸に社会保障というものはありません。
ではなぜそういうその日暮らしができたかというと、短命だったからですよね。「死ぬまで働け」という社会構造であるのは今後の日本と同じですが、現代人が憧れるピンピンコロリが実現していたのです。だからこそ、その日を楽しむために酒を飲んでいたのでしょう。上手くできたハナシではあります。江戸はゼロエミッション社会だったとよくいいますが、人間の人生もいわばゼロエミッションだったのです。
現代人は無駄に長生きになってしまったのだ(泣)
で、以前にも書いたのですが、現代において、アル中、アル依、あるいは毎日酒飲んでいる人も、そうした一日完結型の生活をしています。ただ江戸時代と大きく違うのは、長寿命だということです(アル中までいくとまた違いますが)。
一方で、一生を支えてくれるはずの社会保障が、現役世代からすればまったく理不尽なことに機能しなくなりかかっています。終身雇用制はとうに崩壊していますし、年金は崩壊することはないでしょうけれども、世代間不公平はどんどん拡大していくでしょう(ただ、個人年金であるiDeCoの払い込み額が全額所得控除の対象になるルールは素晴らしいとは思います。受給時に所得税を取られるので行ってこいだと言いますが、民間の個人年金だって受給時に所得税取られ、かつ払い込み時の控除は50,000円までですからね)。
そして大きいのは、「短命」という最大の社会保障がもうなくなってることです。当然、それに伴い、その日一日の疲れを癒すために毎日飲めるのは限られた人たちになっています。
いつも書いていて恐縮ですが、多くの人は、働かなくてもお金を生み出す仕組みを、年金以外にもつくらなければならない。そのための「仕込み」は就業時間外に行わなければならず、それは「あー疲れた酒でも飲もう」といった一日完結型の生活ができないことを意味します。江戸時代を引き合いに出すことで、飲んでいる場合じゃないということがますます明確になってくるのです。