酒やめてから「追い詰められた判断」をしなくなった。それが人生を好転させていくかも!?

酒やめて、1326日。

「がんばらなくてもいい」が意味するところは?

もうずいぶん前から「がんばらなくてもいい」という傾向というかある種の価値観が、社会全体に浸透してきてますよね。この理由としては、うつ病が国民病的存在になっていることもあげられるでしょうし、そもそも大前提として大きな社会的変化があるでしょう。2008年で人口増がストップしたことがまったく象徴的で、本格的に衰退の時代に向かっています。

社会全体の労働人口が多くその逆に高齢者が少なく、さらになんというか地球環境のことなどもあまり考えてなくてよかった時代は、とにかくイケイケドンドンでした。そうした時代では、やはり「がんばる」ことが大きな価値を持っていたと思います。そして闇雲にがんばってもある程度成果が出て、その分、自分自身も経済的なことも含めて幸せになれた、ということが言えたと思います。

また、社会全体が同じ方向に向かっていたので、周りを見て同じようにすればいい、そのエネルギー量だけで仕事や人生の成否が決まっていた。はなはだ乱暴ながら、そう分析することもできたと思います。

しかし社会全体が衰退に向かい、さらには混沌としてくると、「闇雲にがんばる」ことがあまり意味がないものになってきますよね。「がんばらなくてもいい」という思想(?)には、努力は必要ですが正しい努力をしましょうという意味も含まれていると思われます。

そして正しい努力をするためには正しい判断をすることが絶対条件です。周囲に流されるのではなく、社会のなかでの自分を正しく把握し(メタ認知し)自分軸で物事を考えなければいけないわけですよね。

逆に、とにかくがむしゃらにがんばり、その中で追い詰められたようなかたちで判断してしまうと、道(≒人生)を誤ることはとてもよくあります。個人的経験でも確かにそうでした。

追い詰められた判断は良くない。

これが2008年以降の新しい社会の絶対基準のような気がします。

大量飲酒習慣があると、いつも追い立てられるように生きてしまう

で、酒を飲んでると、ですね、わりに「追い詰められた判断」をしがちなのです。

というのは、酒を飲む習慣があり、それがアル中やアルコール依存症、あるいはそれに近い状態になると、「まずは酒飲んで考えよう」になります。自分を客観視しつつとことん自分で考えるという行為を放棄しがちです。まったくもって私がそうでした。そうすると、結果的に正しい判断ができません。これまでの人生を振り返り痛切に感じているところです。

確かに無駄にがんばってもそれなりに報われるような時代だと傷も浅かった。でも、今はそうじゃないところがおそろしいところです。

もちろん飲酒行為によって徹底的に時間が潰されますので、いつも追い立てられるように生きてしまい、それが結果的に「追い詰められた判断」につながり人生を誤ってしまう、そういう危険性もあります。というか、自分の人生振り返って、まったくそうでした。繰り返しますけど。

いつもの断酒者ご都合理論のように聞こえてしまうかもしれませんが、ただ酒をやめてやはり考える時間が増え、またこんなふうに自分の考えを文章にしてみる機会も増え、さらには、何か決断するときにもエクセルで貸借対照表のようなものをつくってみたりして(馬鹿)、少なくとも追い詰められた判断は決してしないという人生訓のようなものができてきたのも事実です。

まあいずれその積み重ねが人生好転につながるのではないかと(笑)。

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