酒やめて、2952日
社会的にも身体的にも「飲まなくていい」
1個前のエントリで、久々に学生時代の友人と会合したら酒を早めに切り上げる人も案外多くて驚いたという話を書きました(参考「もう「pretender」になる必要はないのだなあ、ということをあらためて」)。もうちょっと詳しく書くと、酒を何杯か飲んでグラスが空き、どうしようかなと考えた末にやっぱりお茶にしておこうというパターンです。
そういう人に訊くと、家では飲む時もあるけど飲まない時もある、とのことです。機会飲酒者とまではいかないけれども、前のエントリで記した通り「酒から上手く離陸できた」ということではないでしょうか。
ただ、そのような上手く離陸できた組にしたところで、毎晩のように飲んでいた、飲まざるを得なかった時代はあったはずです。我々の年代では、酒の席で仕事が進むみたいな側面はありましたから。しかしリタイヤ近くなって現場を離れ、当然、仕事で飲む必要もなくなり(社会全体からそういう機会が減っていることもありますが)、また仕事で受けるストレスも少なくなる。同時に齢を食って体質的に酒に弱くなるということもあるでしょう。この二つがうまく重なった結果、別に飲まなくてもいいというふうにあいなると思われます(余計なお世話ながら)。
一方、私はといえば、そんなふうには絶対ならなかったと確信します。私は仕事上必要なくなろうが社会的なストレスから解放されようが、そして酒に弱くなろうが、毎日酔っ払うまで飲んでいたでしょう。途中で切り上げるなんていう到底できなかったと断言できます(威張ることじゃない)。
昨今の日本の状況を考えると……
上手く離陸できた、つまり酒から逃げ切れる人をタイプ①、逃げ切れない、私のような者をタイプ②とするならば、タイプ②は、飲む必要性がなくなっている、あるいは酒に弱くなった時点でも、酒を飲むことが目的化しているわけですよ。
「飲まずにはいられない」とはよく言いますが、これって普通はたとえば「上司がポンコツで飲まずにいられないっ」というふうな外的原因あってのことです。ただしそのような原因なしでも、酒を飲んだ精神状態を必要とするようになる。これが②です。て、私のような者が言うまでもなく、アル中大先輩の中島らも先生が的確に説明しています。
アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ。おれもまさにそうだった。(中略)たとえば「ナイトキャップ」的な飲み方は、量の多少にかかわらず、行動原因そのものがすでにアル中的要素に支えられている。アルコールが眠るための「薬」として初手から登場するからだ。薬に対して人間の体はどんどん耐性を増していくから、量は増えていく。そのうちに、飲まないと眠れないようになる。この時点で、「手段」は「目的」にすりかわっている。
(「今夜、すべてのバーで」より)
そして②の場合は、そのまま飲み続ければ破滅するとまではいかなくても、人生詰みに近くなってしまいまうので、なりたくなければ、酒をきっぱりやめるという選択肢しかない。昨今の日本の状況だとなおさらです。
つまり、人間は老いに近づくにつれ、①になるか、②の場合は酒をやめるという二択しかないわけですよ。とくに昨今の日本の状況だと(しつこい)。
つまり、一生、毎晩思う存分飲むという選択肢はないのです。どんな人間にも。そのように考えると、断酒に際して、飲まないこともあまり苦しいものではないように思えてきます。少なくとも私の場合は、先に述べたように①には絶対なれないという自信がありますので、だったら断酒でもいいというふうに覚悟を決める(?)ことができました。
さて余談ながら、実は③のタイプもあって、タイトルのわざわざ酒に捕まりにいく人です。それほど飲んでいたわけでもなかったのに、齢食ってから酒量が増え毎日飲むようになったというパターンで、実際私の周りにもいます。
これは加齢とともに、その加齢に伴うストレスが増えたということでもあり、それが毎日飲酒のトリガーになっているものと思われます。そうすると飲酒習慣が人生詰みに向けての速度をさらに加速させるわけで、昨今の日本の状況を見るにつけ(しつこくてすまん)、このパターンに当てはまる人も増えてくるでしょう。で、そうなる前に酒やめていてホントによかった、そしてやっぱり酒は怖いよね、という結論になるのです。
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