「イタリーを思うことは、遠く過ぎ去った夏を思うに似ている」――では、「酒を思うこと」はどうですか?

酒やめて、1426日。

伊丹十三作品をもっと体験したかった!

もう20年以上も前に亡くなられた伊丹十三氏のエッセイにこんな一節があります。

イタリーを思うことは、たとえば、遠い日の夏を思うに似ている。

文章における格調の高さとはかくのごとし、という感じですねー。私も本業のほうで雑誌にコラムなどを書かせていただいたりしていますが、このような文才にはまったく嫉妬を覚えます。ま、比べちゃいかんですが。

ですから伊丹十三先生には、もっといろんな作品を残してもらいたかった。もっともっと伊丹十三の世界を活字映像とも体験したかったですよ。できれば伊丹十三監督脚本の『無法松の一生』を観たかった……。となれば、富島松五郎役は今なら小栗旬さんでしょうなあやっぱり、などと妄想が広がっていくのです。

とはいえ、私が伊丹作品の中で一番印象に残っているものはといえば、映画『お葬式』における高瀬春奈さんのお尻なのですが(苦笑)。

ちなみに『お葬式』の紙媒体広告は、試写会で拾った「声」でおおよそのストーリーを語らせるというスタイルだったのですが、「声」のなかには、

高瀬春奈のパンティにびっくりした(スタイリスト21才)

高瀬春奈のお尻にびっくりした(小学生7才)

といったものもありました。広告もまた伊丹十三監督の手になるものでしょうけど、こうしたことをさらりとやってのける才能もやっぱりすげーわ、と感じ入ってしまう次第です。

高瀬春奈のお尻! 伊丹十三著『「お葬式」日記』より。

さて「イタリーを思うことは……」です。

私はイタリアなど行ったことがありませんが、なんとなくこの一節の意図するところはわかりますよ。イタリアの文物を思うと、甘酸っぱい思いにとらわれる、というか、胸の奥底をぎゅっと鷲掴みにされるような心持ちになる、ということですよね。凡庸な解釈で申し訳ありませんが。

飲酒時代を「遠く過ぎ去った夏」として思い出す危険さ

で、この伝で行くと次のようなことも言えます。

(断酒者が)酒を思うことは、遠く過ぎ去った夏を思うに似ている。

そうなのですよ。私は酒やめて来年の2月で4年になりますし、一般的な意味での飲酒欲求はほとんど起きません。ただし、ですね、ときどき、飲酒していた時代が限りなくロマンチックに思えてしまうのですよ。これは加齢のせいもあるのかもしれません。

もちろん当然ながら、実際にはそんな良いもの(時代)ではなく、むしろ地獄と言っていいものでした。それはそれとしてわかっているのですが、それでも、飲酒時代のさまざまなことが、遠い日の夏のような甘美なものに自分の中で美化されるのですね。馬鹿といえば馬鹿ですが、こういう経験をお持ちの断酒者もわりと多いのではないかと推測いたします。

このブログでも何度も書かせていただいていますが、飲酒というのは、喫煙と違って楽しい思い出に紐付けられています。ここがまったくやっかいなのですよ。そして繰り返しますが、そうした甘美な思い出(?)に浸るときは、その百倍以上はあった「地獄」が、なぜか消え去ってしまうのです。人間とは都合良い生き物だとあらためて思いますわ。

で、ここで個人的な事情を言えば、今年、子どもが私立大学を卒業し学費がかからなくなり、またコロナの影響で事務所を畳んだこと、あるいは来年から個人年金がもらえることもあり、今までのようにがむしゃらに働かなくてもいいといった状況ではあります。そうしたときに、すっと気持ちのなかに「酒」という存在が入り込み、美化された思い出と結びついてくるような気もします。危ない危ない。

その「遠い日の夏」ですが、それは当然のように、思い出のままにしていたほうがいいのですよ。たとえば――上手い例が思い浮かびませんからしょーもないサンプルを挙げれば、高校の後輩に対して、お前らの代に〇〇ちゃんていう美少女(当時)いたよなあ今なにしてんのかなあ今度一席設けてよ、などと言うと顰蹙を買うこと間違いなしですよね。まあ、今さら酒に手を出すというのも、そういうことなのではないかと愚考する次第であります。

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