酒やめて、1950日。
断酒して得た「他者に期待しない」という心持ち
現在、長期出張に出ておりまして、自然普段よりも街を歩く機会が多くなっています。そうすると駅前演説などが耳に入って来るのです。いわく、ロシアのウクライナ侵攻にかこつけた防衛費増大をやめろー!てなものですね。
このテーマについてはよく語られるところですし、いわゆるオールドメディアもそう主張しています。
でもって、そういう人々にあるのは、平和憲法(9条)信仰てやつですよね。ただし市井の人間の皮膚感覚は、もうさすがに平和憲法では国を守れんやろーというようになっています(たぶん)。
というのは、なにしろ平和憲法には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という一節があるからです。
これって他者に期待しているってことですよね。
でもって、断酒者の価値観ですが、これはもう「他者に期待しない」です。酒やめてしばらく経って、不思議なことにこのような心理状態になりました。私だけなのかと思っていたら、断酒ブログなどを読むと、似たような心持ちになっている方も多いようです。
その理由をつらつら考えるに、「断酒」という一大事業(?)を成し遂げていて、それには「自分に対する期待」が非常に大きいのです。それがないとできないと言っていいかもしれません。その自分に対する期待の反作用として、あるいはそれを得るための必要条件として「他者に期待しない」がある、と身勝手ながら考えております。
「他者への期待」が大前提の平和憲法てどうなのよ?
そしてこの価値観を用いると、平和憲法というものはかなりヤバいです。
日本の場合、剣呑な国が隣にあって、最近ではパックス・チャイナなどとも言われ、どう見ても中国はアメリカに代わって世界の覇権を握ることを目指しています。そして習近平は、自分が中国史上最大版図の「帝王」になると本気で考えているようです。
で、そういう国の「信義」なるものに期待したってどうしようもないというのが、左翼方面やオールドメディア方面を除いた普通の感覚だし、断酒者的価値観であればなおさらです。
一般生活だって同じで、もうねー、自分のなんらかの働きかけによって他者の気持ちを変えるなんつーことは不可能……かどうかはわからないけれども、それを前提として生きたほうがラクだし安全です。
にも関わらず、メディアはたとえば「話し合いで解決を」などと言う。「話し合い」こそ、「他者に期待する」前提の最たるもので無力だと思いますよー。前からそう思っていたけど、酒やめて確信した次第であります。
ともあれ、世界でもっとも信義に期待できない隣国を持ってしまっているのに、その国に対する期待を前提にすべてを組み立てているのは、もうかなり剣呑な事態ではないかと、余計なお世話ながら……、いやいやこればかりはそうではないですね、命の危険にさらされる当事者としてせつに考えるわけですよ。
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