酒やめて、2776日
「飲む」「飲まない」は自分で決める!
2個前のエントリで、社会的に置かれた状況的にNGなのに「俺は飲める!」と主張する人を紹介(?)しました。
余計なお世話かもしれませんが、この「社会的に置かれた状況」という点に着目して世の中の人を分類すると、次のようになると思います。
①飲んでも問題ない人、②飲むとNGな人、③客観的に見て飲むべきでないのに飲んでいる人です。そして③の人は冒頭のごとくえてして「俺は飲める」とアピールしがちです。
もちろん身体的に(たとえばガンマGTP数値など)飲めるか飲めないかということもありますが、アルコールの脳への影響を考えるとその点では適量というものはなく(一滴でも脳に悪影響を与える)、現代の「死ぬまで働け」という状況の中では、身体的な飲酒の是非を議論するのはもはや無意味になっているとも言えるでしょう。
とはいえ、「飲める」「飲めない」、あるいは「飲む」「飲まない」という選択は依然として存在しています。
私は先の分類(?)でいえば明らかに②であり、したがって断酒の必然があったのですが、若い人の場合、意識的か無意識的かは分かりませんが、このような選択を自然に行っているように見えます。つまり以前も述べたように、アルコールの存在を相対的に捉え、飲むかどうかを自分の状況に応じて選んでいます(参考「酒を絶対視する人と、酒を相対視できる人と」)。その意味でも、人類は、もしかしたら新しいステージに入っているのかもしれません。
そして酒を相対的に捉えられるということは、当然ながら人生における大きなアドバンテージになります。
酒を絶対的な存在と考えてきたけれども……
かつての私は(アルコール依存症になる前でさえ)、酒を飲むことが絶対的なマターでした。酒が美味しいと感じるようになった頃から酒は私の人生において絶対であり、それを前提に生きてきました(威張ることじゃないが)。まさに「♪一月は正月で酒が飲めるぞ!酒が飲める飲めるぞ酒が飲めるぞ! 二月は豆まきで……」というやつです。酒を飲むことが人生におけるファーストプライオリティといったようなものでした。
この「価値観」は私に限らず、実は長い間、多くの人々の生活を支配してきたと思います。「酒を飲むために今日も仕事を頑張る」といった考え方があったわけですよね。社会全体もそれを許容しており、ある意味で酒をニンジンのようにぶら下げ、人々を働かせていたのかもしれません。税制の面でも「飲ませる」ことは政策の一つであり、それに加えて、たとえばサントリーのメセナなど酒造会社の文化的な活動によって、飲酒という行為がインテリ的な行為として見せかけられていました(参考「「自由」と酒の関係は日本だけの特殊な幻想だったのかも、という話」)。
しかし今、「自分軸」が重視される中で、酒を飲むかどうかも相対的な問題になりつつあります。つまり自分自身で判断する時代が来ている。こうした流れは避けられないものであり、飲酒との付き合い方も変わらざるを得ないということを主張したかった次第であります。
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