酒やめて、1666日。
禅もプロテスタントも「自分でやれ」!?
タイトルがカトリックとプロテスタントですが、仏教の話から始めさせていただきます。何かの本で読んだのですが、以下のようなお話が記されていました。その本を探し出せないので、うろ覚えです。すみません。ネットでも探し出せないのですが、そんなに間違ってないと思います。
日本における曹洞宗の開祖である道元が修行時代、中国の偉いお坊さんに会ったとき、その高僧が食事の支度をしているので、喜僧ほどの方がなにもそんなことはせず、その時間で経典研究をしたらと申し出たら、あなたは何もわかっていない、私にとってはこれが修行なのだと返されたとのことです。
これがまさに禅の精神というものなのでしょう。日常の中に修行や教えがあるということですね。この辺はプロテスタントとの共通性がわりとよく指摘されるところです。両者ともに、要は「自分でやれ」です。大雑把ですみませんが。
一方、カトリックはどうかというと「教会任せ」といった側面が強いでしょう。日本の場合は修道会が運営する学校でカトリックに触れる人が多いでしょうから、事情はかなり異なりますが、いわゆるネイティブカトリックの国ではそうだといいます。
つまり教会が主催する儀式などに参加してれば、基本的にはそれでよしということらしいです。
とまあ、そんな大それた(?)話を断酒ブログごときでするのもナンなのですが、なぜしたかというと、こうした違いが飲酒生活と断酒生活の違いのようにも思えるからです。
酒という「宗教」にすがるのはラクかもしれないけれども……
酒を飲んでいるということは、酒という宗教にすがっているわけですよね。カトリックにおける教会と同じです。教会に行ってお祈りする、あるいは懺悔すると救われることに似ています。いや、そういうふうにいうとカトリックの方に失礼でしょうし、そもそも飲酒とカトリックを並べるのも無理があるのかもしれませんが、とにかく一つのものにすがるということでは共通しています。仏教の話と行ったり来たりになりますが、こうしたことは浄土宗系の仏教とも似ています。まさに他力本願です。
一方、プロテスタントや禅宗はどうかというと、日常を大切にしましょうよということですよね。で、断酒もそうです。
断酒すると、生き方が、日常の中に自分を確立させてくれる何かを見つけていこうというふうになります。日常が大切になるということです。
元アル中の体験的に言えば、酒を飲む生活は酒を飲んでいる時だけが救われる生活です。一方、酒をやめると、これはもう日常に幸せを見いださざるをえなくなる。それはそれで、禅の修行やプロテスタント精神の実践とは比べるべくもないけれども、辛いものではあります。ただ、やっているうちに、日常の一つ一つの「マター」が、酒を飲んでいた時代よりも楽しくなるという側面は確かにあると思いますねー。そこが断酒信仰(?)の大いなる「救済」でもあります。