酒やめて、1690日。
「受験の前の平等」という日本の美徳が失われつつある!?
最近、降ってわいたように「親ガチャ」なるものが世間を席巻しています。子どもからすれば親は選べないけれど、しかしその親のあり方によって自分の人生が決まってしまうという考え方ですね。
これに対して恵まれている人、すでに成功している人が、そんなことはないよ努力次第だよみたいな、わかりやすく反感をもたれがちな発言をして、やっぱり反感を買っています。
まあ「親ガチャ」というのは当然あるでしょう。そんなことはない! というのは、このブログでもよく取り上げていますが、テレビなどによるステレオタイプの考え方の刷り込みです。
ただし「親ガチャ」は古今東西に共通したものですが、これまでの日本では、その「親ガチャ」度が諸外国に比べれば小さかったのは事実だと思います。ペーパーテストの受験というものがあり、受験の前の平等があったからです。そしてその受験でいい大学に入れば、親関係なく社会的な成功が見込めました。
しかしながら、グローバル化に伴い人間力なる恣意的な評価がクローズアップされた結果、とくに文系の場合、いい大学をいい成績を卒業しても企業に受け入れられないケースが多発、受験のための努力が最終的評価として結実しないといった事態が起こっています。そこへもってきて、日本独特といっていい貸与型奨学金の返済義務が卒業後の人生の足を引っ張ったりもします。大学の名前とそこでの成績がすべてではなくなっている分、親のコネだとか奨学金を必要とさせない経済力とか、そうした「親ガチャ」度がこれまでよりもいっそう高まっているのは事実でしょう。そしてこれは、グローバル基準に近づいているということでもあります。
誰にも頼まれていないのに私なりに分析すると、そういうことになるのかと思います。
究極の手間ひまかけ親、星一徹!
ただし親の立場からすれば、どんな親でもできることがありますよね。それは子どもに手間ひまかけることです。放任ほどたくましく育つというのは、やっぱりテレビの刷り込みですよ。親がかける手間ひまと、子どもの人生の成功度幸福度が比例するのは、これはほとんど真実と言っていいと思います。
むろん手間ひまかけてもらえなかったという観点からの「親ガチャ」も当然ありますが、親からすれば、繰り返しますが、立場や収入に関係なく手間ひまかけることだけはできるわけです。
ここで先ほどのテレビの影響を今度はいい例として取り上げますけれども、『巨人の星』がそうです。星一徹は獅子は子を谷に突き落とすなどと言いながら、実は究極の手間ひまかけ親です。徹底的に息子・飛雄馬を鍛え、巨人のエースに仕立てていくわけですよね。
『巨人の星』事例は非常に特異だけにステレオタイプから脱しており(今、巨人の星がステレオタイプの典型と言われるのは、巨人の星がひとつの形をつくったからであり、当時はそんなことはまったくありませんでした)、そこからチチローなども影響され歴史に残るバッター(=イチロー)を輩出したというふうに、大げさに言えばなるのではないでしょうか。
で、星一徹が手間ひまかけ親になるのは酒をやめたからです。そこが非常に象徴的だったりします。逆説的に言えば、酒が、子どもに手間暇をかけることを阻害してしまうわけです。
実はこの辺のところを、アル中の過去を持つ一人の親として非常に後悔しております。酒飲んでないで、手間暇かけて育てればよかった。勉強については学校や塾に任せるにしても、それ以外の部分でもっと経験させてあげればよかったと思います。
酒飲まずに意識して子どもと遊び、その中に学びを組み入れていくようにしていれば、ほんとに違っていたと思いますよ。そして学業的な成績がそれだけで意味を持たない今、人間力なる恣意的な評価が用いられる今にあって、親が手間暇かけて育てる意義はかつてなく大きくなっているかと。繰り返しますが、それを阻害するのが酒であり、それゆえにアルカスは「親ガチャ」のなかでも最底辺ということにあいなると思うのであります。