酒やめて、2728日
宮田笙子選手事件は罪と罰のバランスが取れてない!?
ここのところ「飲酒」と「自由」の関係について度々書かせていただきました。そこへもってきて上手い具合に(?)、パリオリンピック五輪代表だった宮田笙子選手の喫煙飲酒問題が持ち上がっていて、オールドメディアやネット上でも議論紛糾しています。
たとえば私の愛読しているブログである「先ちょマンブログ」さんもこのような見解を述べています。先ちょマンさんは罪と出場停止という罰のバランスが取れてないという考え方ですね。私は常々先ちょマンさんの見識と見解に敬服していますが、基本的にはそうだと思います。
もっともこの問題は、いろいろ裏事情みたいなものがありそうで、そこがわからないとなんとも言えない部分もあります。当初は喫煙が問題視されていましたが、その後、本人への聞き取りで飲酒も明らかになり、全体的な生活態度ということが問題になったのかもしれません。ただ、そんなことはうかがい知れぬことなので、とりあえずそこのところは措いておきます。
で、罪と罰のバランスですが、むろん未成年の喫煙は法律で禁止されています。その「罰」は先のブログ記事を引用すると「喫煙した本人への罰則はない。親権者や監督者に対する1万円未満の科料、販売した者に50万円の以下の罰金」とあります。ただし、実際にこれが適用されるケースはほとんどないと考えていいでしょう。
今回の場合、日本体操協会の代表行動規範に違反し、そしてそれは前もって罪と罰の関係も呈示されていたから、出場停止(実際は辞退だが)も仕方ないという見方も当然ながらあります。この辺りは法規、もっと言えば法治というものの一大原則であり、実際、私の大学時代でも、カンニングは一発退学という規則があり、なんの救済処置も取られず粛々と退学になった同級生もいます。彼だって(その時点では)宮田選手と同じく「前途ある若者」でした。
旧い言論人にとっては、「自由」は自分たちだけのものなのだった
というわけで、なかなか難しい問題だとは思うのですが、ただ、こりゃ絶対おかしいわ、なこともあります。たとえば猪瀬直樹さんの例のツイートですね。
これは同じ宮田選手「擁護」であっても、先っちょマンさんの擁護とはまったく違うのですね。それを断酒erの立場から分析してみたいと思います。誰にも頼まれていませんけれども。
まず「杓子定規」という言葉を用いてそれが日本をダメにしたと言っていますけれども、これって猪瀬世代のメディア人が大好きな考え方です。そしてこれが発展(?)すると、凶悪事件があった時などは、日本人一人ひとりの問題だみたいな論法になります。朝日新聞はとくに得意です。
要するに日本がダメだ、日本人がダメだということを何かにつけて言いたくて仕方ないわけですよ。そしてこういう旧い言論人たちは「杓子定規」は嫌いです。
自分たちは優れた人間だから杓子定規で縛られない、自分の自由というものを保障するために杓子定規は要らないという考え方ですよね。その一方で、我々は優れているのだからお前ら読者はそれについてくればいいという考え方をベースに持っています。
私も現実にこういうスタンスの言論人を何人か知っています。
さて、その一方で、コンプライアンスという高まりという事実があります。でもって先っちょマンさんも指摘していますが、こうしたコンプライアンスの高さによって宮田選手は出場辞退になったという考え方もあります。
私は、コンプライアンスとは万人の個を尊重し万人の自由を保障するために、ミニマムの網をかけていこうよ、ということではないかと考えております。
なので、旧い言論人にとってこいつはものすごく都合が悪いわけですよ、何しろ自分だけは自由な立場で一般大衆を指導したいわけですから。そして「喫煙」「飲酒」というマター(?)は、それを主張するのに象徴的というか用いられやすいのですよ。
とまあ、このブログにしては小難しいことを書いてしまいましたが、今回の件を見て、そのように感じ、旧い言論人に対する違和感を新たにした次第でございます。
カテゴリ別インデックスページはこちらです。