酒やめて、2142日。
飲まずに楽しめるのが、優れたコンテンツ!?
コメディアンはハイな客を笑わせても手柄にならない。
これは、アル中大先輩である中島らも著『今夜、すべてのバーで』の中の一節……だったと思います。もしかしたら別の著作かもしれませんが、いずれにしても中島先生の「名言」であることは間違いないです。
いや、ほんとにね、まったくそう思いますよ。なぜかというと、今やっているワールドカップのサッカーの試合が、この言葉の一つの対極にあると思うからです。
ABEMA様のおかげで全試合観ることができているのですが、決勝トーナメントが進み試合間隔が開きゲームのない夜が来ると、ワールドカップロスになったりします。日本が関係してない試合でも、ハイレベルのサッカーがこんなにも面白いものかということを、W杯はあらためてわからせてくれます。これで解説が全試合本田圭佑さんだとなお良いのですが。
で、私は、もちろん酒も飲まず一人で観ています。そして酒を飲まず一人で視てもそれに耐えるのが優れたコンテンツだということに気づくのあります。つまり「ハイ」の対極にある状態でもおもしろいわけで、まさに中島名言の意味するところです。
逆に言えばサッカーでも、たとえばスポーツバーなどで酒飲みながら観れば、それほどレベルが高くなくても楽しめるのでしょう。
野球はもっと顕著で、日本のプロ野球などは酒を飲みながら観ることを前提にしているとさえ思えてしまいます。だから一般的にあまりお酒を飲まなかった昭和のお母さんたちは、野球にまったく興味がないどころか目の敵にしていたのでしょう(そうなのか?)。
ともあれ野球観戦と飲酒は親和性が高く、そして手に手を取って衰退していくのではないかと。
スポイルされた頭に働きかける「手法」はアウトです
本当に飲みながらのコンテンツ消費というのは恐ろしいもので、いつも書いていますけれども、結果がわかっている試合の録画でも飲みながらぼーっと観てて気が付いたら2時間経っていた、なんてことがたびたびでしたからねー。私の場合。結果がわかっているスポーツの試合なんてこの世のコンテンツのなかでもっともコンテンツ力がないものなのに、それでも観せてしまうのが酒さんの恐ろしいところです。
でもって、冒頭の「手柄にならない」ですが、その当事者(?)であるコメディアンの出演するテレビのバラエティ番組も、酒を飲んでほろ酔いの頭で視ることを前提につくられていると感じます。低コンテンツ力のテレビ番組と酒は親和性が高い。だからテレビは殊さらに酒を飲ませようと、西欧諸国では基本的に禁止されている酒のコマーシャルもガンガン流しているのでしょう。その一方で、報道番組ではグローバル基準ガ―とか諸外国デハーとか、さかんに言っていますが(苦笑)。
ただし今の世の中、実際問題として飲酒率も低くなっていて、しかもネット社会を背景として「個」のプレゼンスが格段に大きくなっているため、集団幻想のようなものは馬鹿馬鹿しいという意識が高まり、だからハイになれる機会の総量が少なくなっているのですよ。
それぞれの「個」が「自分にとって」正常な判断をする時代になりつつある。そうすると、酒や集団幻想によってスポイルされた頭に対して働きかける手法の、化けの皮が剥がれかけているというのが現在の状況ではないでしょうか。それはテレビのコンテンツもそうだし政治もそうだし宗教もそうでしょう。そしてそうした時代の先端を走っているのが断酒者であると身勝手にも考えている次第です。
逆に言えば、飲酒時代はその手法に「どんだけ騙されてきたんやー」なのですが(苦笑)。
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