酒やめて、2302日
豪華温泉宿も有難みがない!?
先日、露天風呂が部屋についているという温泉宿に泊まってきました。私としては異例中の異例のことです。生まれて初めてですし、この先もあるかどうか。
もちろん露天風呂に入りながら山々を眺めるのは極楽ではあります。同行者は癒されると言っておりました。そして確かにこういう「体験」は必要なのかもしれないですけれども、断酒erにとってはどうなのかな、とも思うのです。
つまり、以下のようなことではないかと。
同行者もそうですが、普通に忙しい日々を送り、まあ酒も飲み、そういう生活をしていると、たまの休日にこのような宿に泊まるのが癒しになります。イベント=癒し、癒しイベントですよね。
が、私の場合、別に毎日そんなに忙しくもないし、普通に仕事をして普通にまったりして普通にブログを書いたりして、たまに海に行きますが、それもイベントというよりも日常みたいなものです。で、そういう生活そのものが「癒し」ぽいのです。
むろん私とて忙しく働いていた時代もあり、そういうときは、癒しをイベントに求めたりしていました。といってもたいがいは、その大部分が「飲み」なのですけど。
そういう日々を送ってきた者としては、断酒した今の「日常=癒し」というのは、結構、コペ転的なことなのかな、とも考えたりします。
毎日が癒しが重要なのだ
繰り返しますが、普通の人は、忙しく働き、たとえば温泉宿に泊まるような「イベント」で癒される。しかし断酒erは毎日が癒しになる。それは酒を飲んでおらず、心穏やかに過ごしているからです。また現実的には、生活がミニマムになるので、そんなに忙しくしなくてもいいということもあります。この辺は、私がフリーランスだからであって、人それぞれでしょうけれども、ただし「心穏やかに」という部分は共通項でしょう。
以前、カトリックとプロテスタントの違いについて書かせていただきました(参考「飲酒生活と断酒生活をカトリックとプロテスタントになぞらえてみると」)。カトリックは一応の捉え方としては、教会に救いというか信仰を求めるわけですよね。今、日本でカトリックの学校に通っているような人はまた違うと思いますが、歴史的には教会に行く=信仰だったと言っていいと思います。一方、プロテスタントは毎日の生活の中に信仰を求めるということで、どっちが善い悪いということじゃないけれども、この辺もちょっと似ているのかとも思います。
まあ断酒者と一緒にされたら、キリスト者は困るかもしれませんが、ともあれ
イベントに癒しを求める(普通の人)≒教会に信仰を求める(カトリック)
日常に癒しを求める(断酒er)≒日常に信仰を求める(プロテスタント)
というふうになるのではないかと。無理くりですが。
ということは、ですよ。断酒erは別にイベントがなくても暮らしていける。たまのイベントを待ち望みながら日々を暮らしていくよりも、毎日がなんとなく心穏やかのほうが、幸せかどうかわからないけど、少なくとも快適だなあと、たまのイベントを経験した人間としては考えた次第です。
いつも書いていて恐縮ですが、「イベンタブルよりもコンフォータブル」です。
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