「死んでもいい」と「いつ死んでもいい」は、実は対極にあることに酒やめてから気づいた件。

酒やめて、1710日。

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なぜ源氏物語は世界中で愛されるのか

村上春樹がノーベル文学賞を逃してしまいましたねー。残念です。なんでも日本の出版業界には、村上春樹が村上版・源氏物語を書いたらノーベル賞を取れる、そして書かせることに成功した編集者は重役になれる、みたいな伝説があるようです。

確かに「村上源氏」(そういう氏族としての源氏の系統もあるようですが、あくまでも村上春樹が著した源氏物語という意味)が世に出ることがあれば、文学史の中でも大きなエポックですし、(ノーベル文学賞を受賞してもしなくても)全世界で大々的に出版され、世界最古の長編文学である源氏物語、ひいては日本という存在を諸外国にいっそう理解してもらうためにも意義あることでしょう。

もとより多くの作家が源氏物語の現代語訳を手がけており、私などは田辺聖子バージョンで親しんだクチです。その後、林望および林真理子のダブル林源氏でより深く源氏物語の世界を知ることができました。マリコ源氏はかなりの新解釈ですが、現時点では、個人的には、この二作が最高なのではと思っております。でも村上源氏はぜひ読んでみたいですよ。だって光源氏って、村上ワールドの「僕」ぽいじゃないですか。

ともあれ、リンボー先生やマリコ先生の源氏はたいそう面白いのですけれども、では高校時代に読まされた原典訳の源氏物語が面白かったというと、これはまったく面白くありませんでした。そしてそれが世界で評価されていると聞いて非常に違和感を覚えました。そもそも男女の惚れたはれたがなぜそうまで評価されるのかわからなかったのです。

そしてこのことについて、大人になってから、とある国語の先生に訊いたことがあります。そうすると、以下のような答えが返ってきました。

あの時代においては、今のように楽しみが多くなかった。セックスだけが楽しみというと語弊があるけれど、男女の性愛は生きることそのもの、生そのものだった。同時に昔は「死」「あの世」というものが非常に身近にあり、だからこそ「生」を確かめるために性愛を必要とした。みんな必死でセックスしていたんですよ……(笑)。そこのところを切実に書いているから、時代と世界を超えて共感と感動を呼ぶのではないでしょうか――。

大地震の到来が現実的になってきた今だからこそ

さて、私も齢をとってきて死について思いを馳せることが多くなりました。愛犬の死と母の死も一つのきっかけですし自分の行く末も考えます。メメントモリてやつですね。

で、飲酒時代はどうだったかというと、やはり常に「死ぬ」ということを意識していました。このまま飲み続ければ遠からず死ぬんだろうなあそれもまたいいかもしれん、と。とりあえず子どもの学費さえ払いきってしまえば、後はもうどうなってもいい、と思っていました。

でも今はそうは思いません。ただいつ死んでもいいとは思ったりもします。実はこれが180度違うのだということに、ようやく気づいた愚か者がいますよ、という感じですね。

つまり今は、いつ死んでもいいように一生懸命生きようというわけです。こう書くと我ながら綺麗事でうんざりしますが、でもこれははっきりとそう思います。価値観が一大転換しました。「死んでもいい」から「いつ死んでもいい」に。そしてここのところの全国各地の地震の頻発で、なんだか首都圏直下型地震や東海・東南海・南海地震の到来も現実的になってきたような気がして(地震被害そのものよりも、これを機に中国が攻めてくるかもしれないことが恐い)、「いつ死んでもいい」という考え方のプレゼンスは、私の中でますます大きくなっています。

源氏物語の登場人物も、死が身近にあり、いつ死んでもいいように性愛に励んでいたと先の先生は解説してくれましたし、それは事実でしょう。ただまあ、やっぱりことがアレですので生々しい。そう考えると、性愛をさわやかに描く(?)大家、村上春樹氏の源氏物語をぜひ読んでみたいです。死ぬ前に(笑)。

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