酒やめて、1936日。
「絶対正義」は大嫌いだー!
とある言語学者の先生が「世の中に、絶対の知識も信念もない」とお話ししていて、はあーなるほどなあと感じ入った記憶があります。一方で、とある女性から「あなたとの関係において、私が間違っていたことなど何一つない( -`д-´)キリッ」という言葉を聞き、結構唖然としたこともあります。
とまあこのように世の中には、相対的な考え方を有する人と自分絶対で生きている人間がいる、というふうに考えても良いと思われます。そして私は、自分が正義であると自分の価値観で断定する人間がものすごーく苦手です。
中国や韓国や朝日新聞などは、まさにこれですよね。一定のイデオロギー、中国や韓国なら朱子学と反日(中国はプラス共産主義)、朝日新聞なら「日本を貶めたるー」といったことになるのでしょうけど、そういうものは絶対規範になりやすいです。そして人間や組織や国を傲慢にします。
で、非常に低レベルながら、酒を飲んでいるとそういう傾向に陥りがちなのは、皆さまご存じのことと思います。
「諦観」ベースで生きるだけです
飲酒習慣がなぜ絶対正義を助長するのかというと、まず一つは単純に脳が萎縮するからでしょう。脳の機能が衰えて、総合的にものを考えることができなくなるからですよね。
つまり酒は、中国や韓国における朱子学と同じ役割を果たしているというふうに規定してもいいかもしれません。
まあ絶対正義を振りかざすのはご自由なのですが、その結果、人は離れていくでしょう。その場合、黙って離れていくだけです。いわゆる「妖精さん」です。
もちろん私の場合も、酒飲んでいた時代に妖精さんのように離れていった人間はたくさんいたでしょう。それは私が絶対正義を振りかざしていたからかもしれず、その辺は自分ではわからないものです。ただ、人間関係は自分を映す鏡といいますので、先の女性がそうだったということは自分もそうだったのでしょう。もちろん、それ以前にいろいろ「やらかした」からでしょうけど(汗)。
そうした自分の行状を棚に上げて言えば(私はそれでいいと身勝手にも考えています。だって断酒するということは、少なくとも自分のなかでは、過去の自分を棚上げすることですからw)、酒から離れてみると、あの人は絶対正義タイプだなということが結構はっきり見えてくるのです。そういうときは、今度は自分から離れて行けばいいんですよ。自分が妖精さんになるということです。
なぜそうできるかというと、断酒すると断酒者特有の諦観(と勝手に思っている)が生まれ、もう他者にはまったく期待しなくなるからです。それは人付き合いの基本なのでしょうけど、断酒者はより強くそれが自覚できるように思います(参考「他人に期待するな。でも自分には期待しろ」)。自分にどうすることもできなければ離れていけばいいだけの話であって、それはそれで非常にすっきりするものであり、坦坦にして淡々として生きていくことに必要不可欠であるということを言いたいのでありました。
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