酒やめて「諦観」ベースで生きるのが、こんなにラクだったとは!

酒やめて、2926日

「恃むところ」と実力の差が大きすぎた(悲)

1個前のエントリーで「「断酒」と「日本社会」のフェイズがついに合ってきましたな」といったことを書かせていただきました。酒やめて実質的に得たものといえば、やはり時間と経済力とエネルギーに尽きると思います。このことは酒をやめた人どなたにもある程度共通するものではないでしょうか。

また心持ちとして得たものもあり、それは「諦観」です。この辺は酒やめた人みんなに共通するものではないのかもしれませんが、ただ自分としては非常に大きいと感じているし、もしかしたら共感していただける、あるいは参考になる部分もあるかもしれないので書いてみます。

私事で恐縮ですが、私はいろいろこだわって生きてきました(参考「酒による「ねばならない脳」に同調圧力が加わると、かなり強力な人生破壊兵器になるという件」)。酒を飲まない時代からそうでしたが、酒を飲み始めてからはとくに、だったようにも思います。人生において「ねばならない」が多かったのですね。もちろん仕事でも成功したかった。

自分に恃むところが大きかった……というと聞こえは良いのですが、なんというかアレですね、身の程知らずだったということです。

この辺は、若いうちなら野心とか気概にもつながってくるので必ずしも悪いことじゃないかもしれませんが、ただしそれが人生を窮屈にするのは事実で、実際そうでした。実現できれば良いけれどもできないものだから、その間で悶え苦しみ、そして酒を飲むみたいな構造になっていました。

要するに、恃むところと実力の差が大きすぎたのです(悲)。「俺はナニゴトカを成す人間だあ」みたいな中2病的な心理でもあり、仕事など「ナニゴトカ」に分類されることならまだいいけれども、私の場合、子どもを私立一貫校にやりたいとか、ラルフローレンを着せたいとか、大型犬をRV車に乗せてキャンプ行きたいとか、ヒジョーに俗なものも多く含まれていたので、中2病よりもさらにレベルは低かったのです。

でもって酒を飲む習慣があると、どうしても酒を飲む自分を正当化し独善的になるので、こうした性向がさらに強化されていきます。

苦しんでいたのは「こだわり」ゆえだった!

ところが酒をやめると、そのように固執するということがなくなってくるのですね。これには明確な理由があり、以下のように説明できると思います。

飲酒習慣を重ねるうちに、それが自分のアイデンティティになり、大きなこだわりになります。私は、もともとそういう性向だったのでなおさらだったと思いますが、誰でも大なり小なりそうでしょう。そしてこの「こだわり」は、他のものと違って実現(?)がチョー簡単です。なおかつ私の場合は自分が陽キャになった気もして、交友範囲もそれなりに拡がりましたので、なんというか人生で初めて「主要メンバー」になった思いがしていたのですね。ほんまもんの馬鹿ですわ、今考えると。ただしその当時はそれが成功体験だったので、酒を飲むというアイデンティティ(?)がどんどん大きくなっていったのです。

そして、それをやめるということは、その一番こだわってた部分を捨てるということなので、他の部分のこだわりなんて別にどうってことなくなる。つまり、酒へのこだわりを捨てれば、他のこだわりからも自由になれる。これが「明確な理由」です。

そうすると、人生から「お前は何と戦っているんだ」部分がなくなり、「諦観」ベース、それに加えて「楽観」ベースで生きることができる。いやいや、これがこんなラクなもんとは思いませんでしたわ。

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