「テレビの空気」に違和感を覚えるのは要は「宴会」だからだよね。という話。

酒をやめて、2770日。

ニュースも宴会芸になっとるやん!?

前回のエントリで「酒とテレビは、手に手を取って没落していく」という話をさせていただきました。酒離れとともに若者のテレビ離れも顕著ですが、「テレビの空気」が今の若者のメンタリティに合っていないのでは、という仮説(?)です。この点について、もう少し言いたいことがあるので、誰にも頼まれていませんがその続きを書かせていただきます。

テレビの中で繰り広げられる世界は「何かに似ているなぁ」と常々思っていたところ、今回、思い当たったのは「宴会」だったのですね。いや、今さら、と思われる方も多いかもしれませんが、私にとってはわりに新発見でした。

というのは、バラエティはもちろんですが、ニュース番組などでも、先月の日向灘の地震以降「物資不足」「水不足」が煽られ、これらを完全に「コンテンツ化」しているように見えたからです。これはネット上でも指摘されていますが、報道もまた宴会芸のようになっているからなのでしょう。

このように何かにつけて大騒ぎするのは、考えてみれば、テレビ放送による娯楽が一般的になった昭和30年代における世間全体のノリだったのだと思います。高度経済成長期のイケイケどんどんであり、そしてバブル時代にそのノリが最高潮に達しました。それをいまだに挽きずっているのですが、テレビがオワコンに向うに連れ、いわば断末魔のようにその傾向をさらに強めているとも言えるかもしれません。このあたりは、ニワトリが先か、タマゴが先か、という話でもあるのですが。

ともあれ、そのように昔からテレビには「賑やかし」の機能があり、確かにそれが救いになることもありました。私も初めて一人暮らしを始めたとき、テレビがないと非常に不安でした。

しかし現在、そうした機能は、高齢者にしか響かなくなっている、という話を前回もしました。むろん、テレビの代わりがたくさんあるという背景もあるでしょう。

そして重要なのは、我々現役世代もまたそうした時代に適応していかなければならないため、「テレビの空気」はもはや受け入れがたくなっている、受け入れてはいけなくなっているということです。

ロジカルな社会で生きなければいけないので

現在の世の中を支配しているのは「ロジカル」な価値観です。その中で育ち、そういったことに慣れて生きている若者にとって「テレビの空気」は強烈な違和感を覚えるものとして映るのは当然でしょう。そして繰り返しになりますが、ロジカルな社会に適応しなければならないのは我々世代も同様です。

逆に言えば、すでに引退した高齢者は、現役世代のようにロジカルな考え方を身につける必要がないため、些細なことで怒ったり感情的になったりしても問題ないのでしょう。もちろんそれが「老害」として表面化することはありますが、そうした行動が彼らの生存に影響を与えることはない、という点が大きな違いです。

このように考えると、引退した高齢者は「アル中になる自由」がある(参考「僕らにはもう「アル中になる自由」がない」)のと同様、「テレビに扇動される自由がある」と言えますし、若者や現役を続けたい我々のような高齢者に片足突っ込んでいる世代は「ない」のです。

ところが、です。ここからが言いたいところなのですが(前置き長い)、アルコール依存症とまではいかなくても、飲酒習慣があると、ロジカルの反対であるエモーショナルな方向へと酒さんに脳を魔改造されます。すなわち、ロジカルな社会に適応できなくなります。そのことで生存が脅かされる可能性が出てくるのです。そういう意味でも、「酒飲まない」と「テレビ視ない」は表裏一体のものであると勝手に考えていますが、何か(←感情的)。

カテゴリ別インデックスページはこちらです。

にほんブログ村 酒ブログ 禁酒・断酒へ
にほんブログ村

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする