「生きれば生きるほど生ビールはうまい!」という提案(?)がとんちんかんに思える理由。

酒やめて、2736日

なかなかあざといキャッチコピーです

「生きれば生きるほど生ビールはうまい!」という缶生ビールのコマーシャルを、さすがに夏本番だけあって目にするようになりました。ちなみに私の家はテレビアンテナを撤去しているので地上波受信ができず、ただしテレビモニターはあってそれでYouTubeを観たりしており、そのYouTube番組で流れています。

余談ながら、このようにテレビモニターで視るYouTube番組のコマーシャルとスマホやタブレットで視るそれとでは、傾向が異なっているように感じます。テレビモニターの場合、地上波テレビと同じようなコマーシャルが流れるのに、スマホやタブレットの場合、ビールのような一般消費財の広告はほとんどない。そもそもスマホやタブレット視聴では、あまりコマ―シュルが挟まれることがないような。

このあたりのからくりがどうなっているのか、調べてもどーもよくわからんのですが、「それはねー〇〇だからだよー」と説明できる人は、単にITに強いというだけでなく世の中の構造が見えている人なのでしょう。たぶん。

それはともかく「生きれば生きるほど生ビールはうまい!」であります。このキャッチコピーは単にごろ合わせ(字合わせ?)だけでなく、そのココロ(?)はといえば「人生をひたむきに生きる人にこの生ビールはふさわしい」「頑張る人には生ビールというご褒美がある」であり、もっと言えば「あなたは人生をひたむきに生きているから、頑張っているから、生ビールを飲む資格があるんだよ」なのでしょう。

「生きれば生きるほど」飲まないほうがいいよね

でもねー、残念ながらその理屈(?)は今の時代、通用しないんですよー。

いや、通用していた時代はあったと思いますよ。日本でいえば、高度成長期からバブル期にかけてはそうでしょう。「ひたむきに生きる」「頑張る」に組織や社会がしっかり応えてくれていました。バブル期に社会人になった私も、それは実感として感じていました(当時は文句ばかり言ってましたが、今考えると罰当たりです)。

だからそうした時代においては、たとえば組織人の場合、就業時間内に「ひたむきに」「頑張る」であれば、仕事が終わったら安心して生ビールを飲むことができ、心の底から「うまい!」だったと思います。そうしていても、お金もついてきたし、キャリアもついてきたし、将来的な人生設計もできた。

その時代に引っかかっていた我々の世代のなかには、そのように頑張って仕事して、その結果、言うなれば一生、生ビールを美味しく飲める権利(?)を手にした人間もいます。ただし、そこから道を外れてしまった私や、あるいは私たちよりも下の世代は、なかなかそうはいかない。

いわゆる新自由主義の竹中改革以来、「ひたむきに生きる」「頑張る」とお金やキャリア、あるいは一生安泰といったようなこととの因果関係はきわめて希薄になってしまいました。まったくねー、世界史のなかで奇跡的といっていいほどに一般労働者が報われていた日本モデルを、なぜわざわざ壊してしまったのかと思いますよ。素人考えですが。

そして今、なんらかのかたちで報われようと思えば、自分で何かやるしかなく、そうしたときに重要になるのは作業量ってやつですよね。たとえばYouTubeの世界は完全な作業量勝負ですし、他のことにしても「なにかやる」ためのインフラがITである以上そうならざるを得ないでしょう。そして作業量を支えるのは時間です。そこへもってきて、酒さんの時間強奪能力は半端ない。

ということは、ですよ、今は「生きれば生きるほど生ビールはうまい!」ではなく「生きれば生きるほど生ビールは必要ない!」になるのであります。論の帰結として。これは断酒erとして言っているわけではなく、もう社会構造的にそうなのだから仕方ありません。

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