酒やめて、1128日。
アピシウスで「お、ワイエスですな」とつぶやくために
日比谷にアピシウスという超絶高級なフランス料理屋が昔からあって、もちろん私は行ったことがないけれども、そのレストランの店内にはユトリロやシャガール、あるいはアンドリュー・ワイエスなどの本物の絵画が飾られているそうです。このことはテレビのドキュメンタリーにも取り上げられたことがあります。なんでも経営はヴェンダー自販機の会社で、そこのオーナー社長が趣味で集めたものだとか。
で、そのアピシウスに彼女を誘ったときどうすればいいかということを、90年代に刊行された『東京いい店やれる店』という、冗談のようなタイトルの本のなかで解説したのがホイチョイ・プロダクションズ(安倍首相と、小学校から大学にいたるまでの同級生らしいですね)です。つまり、彼女とアピシウスに行って、絵を見て「お、ワイエスですな」とつぶやけば株が上がる、というわけです。しかし有名な印象派の絵画ならともかく、現代絵画などは絵を見て作者を当てる(?)ことなど至難。だったらアピシウスの店内のどこに誰の絵が飾ってあるのか丸暗記すればいい、ということで示されたのが下のイラストであり、東京デート史上の一大快挙と言えるものかも、です。
なぜ快挙かというと、これは大げさにいえば、その四半世紀後、つまり今、プチバズっている絵画鑑賞ブームを先取りしたものと言っていいからです。
酒の席での話題も問われる、嫌(?)な世の中に
絵画は、知識ではなく感性で鑑賞するもの、と普通は思います。でも今の絵画鑑賞ブームはちょっと違いますよね。教養ブームというものがベースにあり、それはグローバル化と無関係ではないからです。
つまり欧米では極端な話、教養は「差別」するためのものです。と言って悪ければ、自分らのクラスが高いことを、クラスが高いもの同士で確認しあい下々を見下すためのものです(嫌な話ですねー)。いわばマナープロトコールの一環としての教養ですね。
日本ではそうじゃなかった……、と思われがちですが、しかし日本にも教養による差別はありました。和歌などは、まさしく公家階級が武士階級を差別するためのものと言えます。だからこそ源実朝は、そんなものにうつつを抜かすなということで暗殺されたのかもしれませんし、逆に和歌に造詣が深い武士である細川家は、足利、織田、豊臣、徳川と主君を変えながらも生き延び、現代まで名家であり続けられたのでしょう。
今後、絵画鑑賞に代表される教養力は、グローバル社会のなかで、クラス感を共有するためのもの、つまり自分は怪しい者ではないことをアピールするための世界共通語として、ものすごく大切になってくるだろうということは何となくわかります。そして今、ビジネス飲み会などでも、そうした話をすることの大切さが説かれています。つまり芸能界の話題や単純な政権批判などを飲み会でしていたらダメなやつという烙印を押されるらしいのですね。
さて翻って私自身のことです。アル中時代の末期は、誰かと飲んでいても、その話題といえば、あの店は280円で本マグロが食えるだの、あの店のホッピーのナカはジョッキの八分目まで注いであって神だの、その手の話ばかりでした。それはもちろんコスパよく飲むための実用情報の交換ではあるのですが、おそろしいことに、それが話していて一番楽しいことだったのです。で、たとえば飲み友が時勢批判みたいなことを始めて、世の中の酔っぱらいによくある「安倍のセイダー」になると、「違うの違うの。世の中の悪いことはね、ぜーんぶ本田翼ちゃんが可愛すぎるせいなんやああああ」と言って、上手いことゆーたったと一人で悦に入っていました。まったく私も飲み友もダメなやつの文法通りです。そしてその後、記憶がなくなるわけです。アンドリュー・ワイエスも金槐和歌集も、頭のなかにはかけらほどもありませんでしたねー。
教養の時代ということを考えても、飲んだくれは完全に置いてけぼりにされそうです。