酒やめて、2482日
芸人基準を一般人に用いていいのか
前回、前々回のエントリーで、河本準一さんの断酒→再飲酒について取り上げさせていただきました。河本さんの場合、せっかく10年も断酒していたのにほんとにもったいないと思うのですが、しかし酒を飲んで仲間意識を醸成するのは吉本という世界における、なんというか自分の存在証明になるんでしょうね。よう知らんけど。でもなんとなくそんな感じがして、だからこそ「闘病→断酒→21キロ激痩せの「次長課長」河本準一、“10年ぶりの一杯”に涙 同期や後輩に見守られ「シュワ~ってしみていく」の記事にあったように再飲酒に際して涙が出たりもしたのでしょう。
芸人の世界は特殊なので、そうしたことが必要なのかなあとも思いますが、ただ、そのようなことを一般人に当てはめても意味がないと私は思います。酒が取り持つ芸の世界、一般人は関係ないよ。てなものではないでしょうか。
むろん、一般人でも酒による紐帯をアイデンティティにしている人もいるでしょうし、飲酒時代の私もまったくもってそうでした。ただ、そのアイデンティティの確認に断酒erを巻き込もうとする輩がいるので困ってしまうのですよ。
飲酒の人生に対する関与度を考えてみると
私の友人に対して「〇〇(←私のこと)みたいになったらおしまいだから、我々は一緒に楽しく飲みましょう」みたいなお誘いをしてきたという人がいるそうです。で、友人は、こんなこと言ってきてるけどさあ何考えているんだろうねえと言ってそのLINEを私に見せてくれたりするわけです。
世の中には誰かの関心を得るにあたって第三者をディスるというメソッドしか持っていない人間は確かに存在していますので、そのクチなのかなとも思います。で、その心理構造(?)を勝手に分析させていただければ(そんなふうな言われようをしたのだから、そのぐらいやってもよかろうもんw)、以下のようになるかと思われます。
それは、あいつ(私のこと)はアル中になったあげくにもう飲めなくなってかわいそうだけど、自分は飲酒生活を謳歌することができ、それが自分の一つの存在証明になっている、といったものでしょう。繰り返しますが、飲酒時代の私もそのパターンでした。飲まない人間をディスったりはしませんでしたが(当たり前だ)。
酒飲んで飲み仲間と交流するのがアイデンティティになる。冒頭の河本さんのような特殊な世界にいる人は、ある程度、そういうことも必要なのかもしれません。が、今の世の中で一般人がそれをやったら馬鹿です。
いや、仲間と楽しく飲むのは馬鹿じゃないけど、それが自分の存在証明のように感じてしまうのは、今の世の中において明らかなディスアドバンテージになる。いつも書いていて恐縮ですが、今は、飲酒で時間を奪われている状況じゃないし、ましてや飲酒を自分のアイデンティティにする生き方はお呼びじゃないです。過去の自分への戒めも込めて言いますけれども。
断酒er的に言えば、そのような価値観から解放されるのが、酒をやめるメリットとしてあると思いますし、また先のような事例を目の当たりにすると、いっそうその思いを強くするのです。感謝ですね(笑)。
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