同じ「やりたいこと」「やるべきこと」でも、同調圧力によるものと自分の内なる声によるものでは全然違うのだという話。

酒やめて、2852日

同調圧力による価値観を具現できないために酒を飲む!?

ちょっと前に「やりたいことがたくさんあるのに酒飲んでいたらどうなっていたことか。いや、それは逆でした」「「余命10年」と規定するとすべての行動が変わってくるよね。むろん酒は飲みません」といった話を書かせていただきました。残りの人生において、やりたいこと、やるべきことが多すぎるのに、酒飲んでいたらとてもこなせませんわということを、岸博幸さんの著作(『余命10年 多発性骨髄腫になってやめたこと・始めたこと』)にあった「バケット・リスト」を持ち出して説明させていただきました。でもって、ちょっと言い足りない点があるので、自分の心情語りで大変恐縮ですがさらに深堀りさせていただきます。

いや、酒飲んでいた時代もやりたいこと、やるべきことに属するマター(?)はもちろんあったんですよ。ただしそれは、たとえば子どもをいい学校に入れたいだとか、一軒家に住んで大型RV車に乗って犬を飼いたいだとか、このように書いていてもなんというかホントに俗な、要はテレビなどで呈示される同調圧力に屈した類のものだったのですね。他人のせいにしちゃいかんが。

すなわち、酒飲んでいた頃は他人軸で生きていたと思います。この辺のところは何度も書かせていただいて繰り返しで大変恐縮ですが、マジでそう思います。

そしてそのような価値観を具現(?)するために精一杯で、またそれができないために――その理由は酒を飲んでいるせいも当然あるのですが、基本的に実力不足だったのでしょう――悶え苦しんで、そのストレスから酒を飲むという構造になっていました。

「自分軸」はラクなのだった!

でもって今回言いたいのは、その頃のやりたいこと、やるべきことと今のそれとはもうまったく違う( ー`дー´)キリッ ということであります。

今のやりたいこととはサーフィンだとか身勝手といえば身勝手なことが多いのですが、これは自分軸で形成されたもの、心の内なる声に基づくものであり、やらずに死ねるか!(さらに身勝手)みたいなところがあります。

で、こうしたことを感じ取れる能力を身につけたのは、やっぱり酒をやめたからでありますよ。自分の内なる思いに耳を傾けそれを素直に実行しようという心持ちになれた(大げさ)のは、断酒したからこそ、なのですね。

例によって文章力のなさで上手く言えない(実力不足の証明)のですが、「他人軸によるやりたいこと」から「自分軸によるやりたいこと」への転換というのは非常に大きく、死ぬまでにこれに気づいただけでも大きな成果であったと改めて感じるのであります。

そしてなによりも、やるべきこと(終活など)はともかく、やりたいことについては、それが「圧力」によるものではないだけに、しなくても苦しまなくて済むという点がいい。このあたりも、断酒すると人生ラク~になる一局面であるのかあ、と。

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