酒やめて、1285日。
コロナ禍でますます体験レスに!
人気ブログの「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」がいつものことながら興味深い分析をなされていました。
一部抜粋すると、以下のような指摘があります。
つまり「非日常的な体験」のために大勢の人の中に飛び込むことが、なかなかできなくなってしまった。それどころか、そうしたことをするために移動することさえ憚られる世の中になってしまったのである。
そうなのです。コロナで「体験」というものが非常にしにくくなった、そしてそれは今後かなり長い間続くのではないかという点が問題です。
本ブログでも僭越ながら体験の重要性について一貫して訴えてきたつもりです。そしてその体験チャンスを奪うのが酒であるという論理(?)を展開してきました。これは断酒ブログ的なご都合理論ではなく、厳然たる真実です。それだけはきっぱりと言えます。
そして親の体験レスが子どもにも「遺伝」してしまう危険性も、自らのこれまでの人生を踏まえ(?)訴求してきました。
で、ここにきて、その体験レスをもたらすものが酒とコロナとダブルになってしまったということを問題視したいのであります。しかもこれらはシナジー効果、むろん悪い方のシナジー効果を発揮します。
つまり、何もやることないから酒を飲もうになりがちだということですよね。
でも、これも本ブログでたびたび訴求して参りましたが、何もやることがないのは、めちゃチャンスなんですよ。
そして今はパソコンさえあれば、勉強が始められる時代です。
一方、何もやることがなくて酒を飲むと、もう本当に酒を飲むしかやることがなくなってしまいます(笑)。さらにコンテンツに対する審美眼が甘くなり、テレビのような低クオリティコンテンツをダラダラと消費することになりがちなのです。
ぶっちゃけ、難しい本や資料は読みたくなくなるのですね。しかも経験から言えば、おそろしいことに飲酒習慣が重なると、しらふのときでも読みたくなくなってしまうのです。
書物やネット上の「体験」は差がつきやすい
酒をやめると、まず、低クオリティコンテンツに対する排除力はものすごく高まります。ですからテレビがマジくだらなく思えてきます。こんなものなんで楽しめてたのだろうと思いますよ。
その一方で、自分に必要なものであれば難しいものでも読んでみようという気になってきて、酒を飲んでいた時代に敬遠していたものが、わりにすらすらと頭に入ってくるようになる。これは不思議です。
皆さんからすれば非常に低レベルな例で申し訳ないのですが、ワードプレスの教則本の類は、飲酒時代の私にとっては、もう1ページ読んだだけで嫌になる部類のコンテンツだったのですが、酒飲まないと、なんとか頭に入ってきてこういうふうに立ち上げることができているのです。
話をコロナによる体験レスに戻せば、なかなか体験ができない今、そのようにネットや書物で疑似体験していくことのプレゼンスが大きくなっていて、この意味でも、酒をやめているということが非常に大きな意味を持つと思います。
アクチュアルな体験は、「酒飲まない」以外にもお金とか暇とかエネルギーとか(飲まないとこの三つは湧いてくるものではありますが)、そうした要素が絡んできて、一概に言えない部分もあるかもしれません。ただ書物などの疑似体験は、あまりそうしたものの影響を受けないだけに「飲む」「飲まない」がダイレクトに影響し、また誰でもできることだけに差がつきやすい、ということですね。ジジイ臭く言えば、「酒を捨てよ、書を携えよう」ということになるのでしょうか(笑)。ま、自分の子どもに言い聞かせたいことでもありますね(笑)。
子どもといえば、前述したように親の体験レスが子どもにも影響しますし、親のコンテンツ消費の姿勢も当然ながら影響します。私にしても酒飲んでなければもうちょっと本の読み聞かせなどもできたのかなあなどと今さらながら後悔もしていますよ。やっぱり。