「ドーパミンの出し方」について、人類は歴史的転換点を迎えようとしているという仮説(?)。

酒やめて、2238日。

教会の荘厳な空間演出はドーパミン放出支援のため!?

ひとつ前のエントリー(参考「何を以てしてドーパミンを出すか、その「何」で人生決まっちゃう時代に突入したのかもしれません」)と二つ前のエントリー(参考「筋トレはじめ運動というものの偉大さに、あたらためて思いいたっています」)で、ドーパミンについて書かせていただきました。

人間の脳は高度に発達がしたがゆえに、ドーパミン放出を欲しがるようになってしまった。このことをまず前提にする必要があると思われます。

じゃあ昔の人は気軽に酒を飲むわけにもいかなかったし、どのようにしてドーパミンを出していたのか。そう考えると、たとえばキリスト教社会の場合、「教会」という存在に行き着きます。

教会で祈りを捧げたり、讃美歌を歌ったりするときにおそらくドーパミンが出ていたのでしょう。そしてその放出を促すために、とくにカトリックの場合、教会に非常に荘厳な空間を演出した――のではと勝手に考えています(参考「飲酒生活と断酒生活をカトリックとプロテスタントになぞらえてみると」)。

ともあれドーパミン――というよりも脳内ご褒美物質といった方が雰囲気が出ますが、そのようなものを宗教は利用してきた側面もあったのでしょう。「法悦」なんていう言葉というか状態もありますし。

宗教は脳内ご褒美物質の放出を促す儀式なりを行うことで、信者をつなぎとめてきた。いわゆる危険な宗教においては、その延長線上に「洗脳」「支配」があります。

逆に言えば、脳内ご褒美物質の放出を求める脳は利用されやすい。でもって、その脳の性質を一番利用し、「自らをさらに飲ませてやるで」という意図と意思を以て人間を支配するのが酒さんですよね(参考「アルコールとトキソプラズマの「支配」は同じだという件」)。

何を以てドーパミンを出すか。意識できる!

とまあこのように人類は、ご褒美物質の放出を求める脳をなだめるために、利用される、支配される、洗脳されるという、諸刃の刃と付き合ってきました。が、実はここにきて、それが歴史的転換点を迎えようとしていることを私は主張したいのであり、そこを考える必要があるのではないかと思っているのであります。

それが、前回、前々回で書いた、筋トレをはじめとした運動による「脳内ご褒美物質噴出の自覚」ということです。運動→ドーパミン噴出のプロセスを自在にコントロールできるようにすることは、脳にご褒美を、自分の意思で与えられるということです。これって実は結構めちゃ大きいのではないかなと思うのです。利用されやすい、支配されやすい、洗脳されやすい、という、ドーパミン噴出の「特性」とは無縁でいられるからです。

そしてもっとも危険な噴出支援行為である飲酒、それも大量飲酒を経験し、その上で断酒した人は、自分によるドーパミンのコントロールにアプローチしやすい。つまり、人類として一歩先を行っていると勝手に考える次第です。

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