憂さ晴らしに一杯であるのならば、その憂さを取り除けばいいのだ。

酒やめて、2860日

集団で働くから「憂さ」が生まれる

ちょっと前に「「群れない」「酒飲まない」は進化した人類か」といった話を書かせていただきました。人間が「つながる」ために酒が必要であるのならば、その酒の役割が希薄化しているということですね。人間はもはやつながらなくても生きていける。社会の仕組みがそうなりつつある。それを先取りしているのが断酒erだという身勝手な主張をさせていただきました。

さて、憂さを晴らすために酒を飲むというパターンがSociety4.0まではあったと思います。それがだんだん本末転倒して酒を飲むこと自体が目的になり、酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞーであったのが人類の歴史というものでしょうか(大げさ)。そこからさらに私のようなアル中の愚か者だと、不愉快なことがあれば酒が飲めるので不愉快なことがないかなあと、なんとなく心待ちにするといった倒錯した変態になったりもしていました。まあそんな境地(?)にまで達する人はあんまりいないでしょうけれども。

ではなぜ「憂さ」が生まれるのかといえば、Society4.0まではやはり集団で働く、組織で働くということが大前提だったので、人間関係がその大きな理由だったと思います。だから、たとえば「上役のばかやろー」で酒を飲んでいた、みたいなところもあった。でもそれは仕事をするために、あるいは生きていくためで仕方ないことでもあった。集団でしかできない仕事に、世の中の人みんなが依存していたわけですから。会社もそうだし、そもそもそもSociety2.0の農耕もそうでしょう。

人格抜きで仕事ができるから酒も要らないよね

ところが、であります。今や組織に依存しなくても生きていける方法がある。単にフリーランスになるとかそういう立場的なことではなくて(むろんそれも非常にしやすくなっているが)、組織の中でも、仕事を遂行するにあたって必ずしも恒常的に固定されたチームである必要がなくなっている。後腐れのない人間関係、人間の能力という機能だけを持ち寄って仕事をするというふうになっていますよね。つまり、仕事に人間関係のウエットな部分が入り込む隙間がない。

例によって文章力のなさで上手く言えない部分なのですが、たとえば、ですね、私の仕事関係でも、自分の存在感をアピールしたいがゆえにわざわざ反対意見を出すような人間もいます。余談ながらそういう人を見ると、読む人、視る人が少なくなったから、余計に自分たちの偏向した主張を押し付けようとしている昨今の(オールド)メディアを見るような思いがします。

でもそういう人間って、だんだんそのプロジェクトから排除されていくんですよ。純粋に能力だけを持ち寄って仕事をする、ただそれだけの関係になっているから存在主張は必要ない。むろんこの辺は温度差がある部分ですけれども、ただ「まあまあ、あの人の顔も立てて」というような仕事のやり方は、それだけでディスアドバンテージになる世の中ではあります。

逆に言えば、そのような人格込みの仕事になってしまいがちなのが固定された組織というものでしょう。で、当然そこには酒さんも絡んでくるわけでありました。つまり、人格込みで仕事をするときに、飲酒もその一部と化していたということが言えると思います。

で、しつこいようですがもはやそうじゃない。「憂さを晴らす」――ストレス解消のために酒を飲む、そのもともとの要因である「人格込みの仕事」がだんだん消滅しつつあり、また、一昨日書かせていただいたように、それを自ら取り除くこともしやすくなっている。だから酒飲む理由もなくなっているんじゃね、ということを言いたいのでありました。理屈ぽくてすまんが。

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