「再飲酒」という大問題について、思うところを述べさせていただきます。

酒やめて、1966日。

再飲酒しても「テヘペロッ」でまた断酒すればいいわけで

再飲酒(スリップ)をどう考えるかは、断酒者にとって非常に重要なテーマ(?)であります。私は基本的には、断酒し、そして再飲酒したところで、飲んじゃいましたテヘペロッで、また断酒を始めれば(変な表現ですが)いいと考えています。

そうしたスタンス(大げさ)からすれば、たとえば中田敦彦さんが再び飲むにあたって、新規事業のため、みたいことを持ち出したのは、なんだかとても残念だったのです。それだと再び断酒がしにくくなるやん、と思ったのですね。ましてや敦ちゃんの断酒理論は完璧だっただけに、です。

まあ敦ちゃんは有名人だからいろいろ事情はあるのでしょうが、一般人が「テヘペロッ」以外の理由を持ち出して再飲酒するのは、やっぱりあまりよくないのかなあ、と思ってしまうのです。

なぜ、余計なお世話ながらこんなことを言うかというと、多くの断酒者が再飲酒するとき、俺ってこれだけ断酒が続けられたんだから今後は普通に飲めるんじゃね、と思うらしいのですね。もちろん「普通」がどの程度かという問題はありますし(いつも書いているように、今や適正飲酒の量は一日に350ml缶ビール2/3程度で、飲まんほうがましやああああ! レベルなのですが)、また最初は「普通」であってもやがてどんどん酒量が増えて、断酒前よりも酷い状態になるそうですが。

ただ、それはわかっていても自分だけは大丈夫と思うのですね。アル中→断酒大先輩の小田嶋隆さんの言葉を借りれば「神秘的なほど」の共通点だそうです。で、これは、酒さんの罠なのです。

自己正当化による再飲酒は危険!?

アル中とまでいかなくても酒飲みというところの者は、自己正当化が習い性になります。俺は飲んでいい、俺は飲んでも飲まれない、俺は誰にも迷惑かけてない、といったことをいつも心のどこかで思っています。私もまったくそうでした。そしてそれが嵩じると、あいつはアル中だけど俺はアル中じゃない、と、自己正当化のために「他者」を用いるようになり、さらに末期的症状として、断酒者に対してまで、お前はもう飲めないけれども俺は飲める(俺は特別な人間だ)、とマウントを取る(?)ようになります。

断酒者が再飲酒するにあたって、な~んだ俺って飲んでもいい人間だったんやあああああ、と思うのも、この心理ですよね。傲慢ベースの自己正当化であり、それは、酒が自らを飲ませるために人間の人格を魔改造しているからなのです。

逆に言えば、再飲酒にあたってそう思うこと自体、酒さんの戦略にまだとらわれているわけですよね。そして、このような再飲酒の仕方は再断酒を前提としていないので、これも「テヘペロッ」とは大きな違いです。

と、エラソーなことを書き連ねてきましたが、じゃあお前はどうなんだといえば、普通に飲めるとは考えたこともなかった、というのが本当のところです。飲んでいた時代から、そもそも普通になんか飲みたくなかった、酔いつぶれるまで飲むのが私にとっての「普通」だったという特殊事情もありますが。

そのようなポンコツ飲みしかしてなかったし、それしかしたくないので再飲酒はしない、という結論に達します。威張って言うことじゃまったくありませんが。ただ案外、そういう人も多いのでは。

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