花見について、断酒者として思うところを書かせていただきます。

酒やめて、1884日。

桜を愛でる風土をこしらえてくれた先人に感謝!

一昨日もちらと書いたのですけれども(参考「台湾におけるビンロウ文化は廃れてしまったようです。日本における酒文化はどうですか?」)、花見文化……はいいにしても、花見宴会ってどうなんでしょうねえと、今さらですけど思ってしまう次第であります。今回はそこのところについて、もうちょっと触れていきたいと思います。誰にも頼まれてはいませんけれども。

いや、もちろん花見自体を否定するつもりはありません。桜を愛でるのは日本の伝統にして美徳だし、毎年桜が咲く風土をこしらえてくれた先人には感謝したい気持ちでいっぱいであります。私が借りている老朽家屋にも桜の木が植えてあって、現在、ソファに寝転がって窓越しに楽しんでおります。お花見なんて、こんなのがいいなあと思ったりもします。

問題にしたいのは、冒頭にも書きましたが花見宴会てやつですね。コロナでここのところ自粛気味でしたけれども、今年は復活しているようです。私のところにもお花見やりましたメール(お花見お誘いメールではない)が来たりもします。

別にやりたい人はやればいいのでしょうけれども、一昨日に書いた台湾のビンロウ噛みと同じく、花見宴会というのはわりに下品な部類に属するのではないかなあと、余計なお世話ながら思ってしまいます。

花見宴会やっている人からすれば、なんと鼻持ちならない意見あるいは感想に聞こえるでしょう(てか、そもそもそうした人間はこのブログ読んでないでしょうが)。ただ、ですねー。この件については、なんというか単に断酒者ご都合ではない、心理的に(?)もうちょっと深いものがあるんですよ。勝手ながら。

「行事としての花見」も、同調圧力の一環だった!?

いや、私も飲酒時代は花見宴会やっていましたよ。当然ながらそれは、四月は花見で酒が飲めるぞお~の類でした。そして我々世代はバブル(ちょい前)でしたから、そういう「イベント同調圧力」みたいなものを感じてしまうのです。「イヴは赤プリを1年前から予約」みたいな価値観が支配していて、いや、むろん私はそんなことに無縁でしたが、世の中の雰囲気としてそういうプレッシャーがあった、と。

あーあれだ、そうそう、以前も書きましたが(参考「酒のおかげで自分は「陽キャ」だと思い込んでいた愚か者がここにいますよ」)、文化祭実行委員のノリ、陽キャ&主要メンバーであることを世の中と時代に強制されている、やさぐれることを許されない青春だった……と、今思えばそうなります。

だから花見でいえば、たとえば目黒川沿いのお店の窓側の席を1年前から予約する~みたいなことですね。いや、やってませんけど。ただ、そのような年中行事をきっちりこなす人間である必要があったのです。考えすぎかもしれんけど。

でもって、今の若い人たちは、そうしたことを「くだらない」「ダサい」と思っているのでしょう。そして、別に陽キャになる必要もない、主要メンバーなんてまっぴらだ、だから年中行事もこなさなくてもいい、という考えが普通でしょう。

年中行事のなかでもお花見はやっぱりやっぱり組織に紐付けられている部分があって、一方、組織に忠誠を誓うメリットが限りなく小さくなっている社会構造のなか、馬鹿馬鹿しくてやってられないというイメージもあるのでは、と思いますわ。

というわけで、花見宴会はやや下品な、ビンロウと同じくレガシーのアイコンにシフトしていますよね。そんなことはお前に言われなくてもわかってるというムキもあるかもしれないけれども、我々ジジイ世代を支配した同調圧力としてのお花見という観点から書かせていただきました。

あと一つ思うのは、お花見の季節って、まあ日本は広いですからいろいろあるでしょうけれども基本寒いですよね。夜桜見ながら宴会酒なんて、今は到底する気分になれません。やっぱり家で一人で窓越しに見るのがいいです。

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