酒やめて、2830日
がんで死ぬのはラッキーか
ここのところ、食道がんだったかも、という話を二度ほど書かせていただきましたが(参考「酒をやめて何年経とうが、食道がんは「許しちゃくれねえ」らしい」「がんは過去の不摂生に付け込んでくる。だからその不摂生の時間をできるだけ短くしたい」)、2年前にも「先生、がんですか」「たぶんそうです」という経験をしています(参考「断酒と闘病カテゴリ」)。
日本人の二人に一人ががんに罹ることはよく知られていますが、ほんとに齢食ってくると身近になるなあと実感しますわ。ちなみにうちの母は肺がんで亡くなっており、父方の祖父母、父の妹もがんだったので要はがん家系です。なので、ある程度は覚悟しています。
そうではあるけれども、今回、がんかもしれん、となったとき、でもあと10年は生きたいなあとせつに思いました。
これまたよく知られているように、がんはできる部位によってかなり生残率が異なり、除去してしまえば完治するがんもあり、がんと付き合いながら長く通常生活を送ることのできるがんもあり、また覚悟を決めた方がいいがんもあるということですね。
そして、たとえ覚悟を決めたほうがいい場合でも、やはり半年なりは人生を折りたたむ時間的余裕が与えられ、これがプッツン系の病気とは違うところでしょう。
そんなことはお前に言われなくてもわかってるわいという向きも当然あると思いますけれども、以下、2年前と今回、もしかしたらがんかもしれん、という状況下で考えたことを記してみたいと思います。
生きる前提、死ぬ前提を「仕分け」すればいいのだ
朝井リョウさんの『正欲』の冒頭に「この世界が、【誰もが「明日、死にたくない」と感じている】という大前提のもとに成り立っている」という一節があります。
人間は生きることを前提としてすべての行動をしているというわけですよね。そして死ぬことを前提とすると、その行動が違ってくるわけですよね、当たり前じゃないかと言われればそれまでであり、例によって文章力のなさで上手く説明できないのですが、今回、生きることを前提にした行動と死ぬことを前提とした行動に「仕分け」してみようと考えたのです。
たとえば、仕事なんてものは生きるためにする最たるものであって、死ぬと分かったら絶対にしたくないです。もちろん、自分の仕事を完成させて死にたいという人もいると思いますが、私の仕事などはそんな大それたものではないし、もし半年後に死ぬんだったら全部断ります。
で、死ぬ前提で行うのは、最優先事項としては、やっぱり子どもにいくばかりか残してあげる、それが上手くいくよう手続きをすることです。個人年金が上手く引き継げるようにしたりとか、そうした生命保険関係もそうですが、重要なのは、私が父よりも先に死ねば、うちの子が法定相続人になるわけですから、きっちり父の財産も相続できるように道筋を立ててあげる。そういうことは絶対にしなければいけないなと思いました。なにしろZ世代はその手のことで面倒くさくなると「もういいよ」になりがちなので。
後は、できるだけ回数多くサーフィンに行くことですね。これが第2位です。できればKindle出版みたいなこともしてみたいですけれども、この辺はある程度時間がかかるのでちょっと無理かもとも思うので、優先事項の3番目になったりします。
と、このように「メメントモリ」(参考「「メメントモリる」とますます飲んでる場合じゃない件」)しつつ、そこでやるべきこととそうでないことが仕分けできたのが良い経験だったかなと思います。
むろん、結果的にがんじゃないとわかって、だから生きるために仕事もしなければいけないですが、死ぬ前提でやるべきことを、生きているうちに少しずつやっていこう、と。
とまあ、当たり前といえば当たり前の結論に到達したのですが、ここからが言いたいころでありまして、飲酒習慣があると、時間を奪われてしまうので、それができない。人生上手く折りたためずに死んでいく。結局、それが一番怖いのかなあとも考えた次第でございます。
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