下戸が勝ち組の世の中、いよいよ到来!?

酒やめて、 2766日。

データでも裏付けられる「若者の酒離れ」

私が日々愛読している庄内拓明さんのブログ「知のヴァーリトゥード」に「若者って本当に酒離れしているようなのだが・・・」といった記事がアップされていました。その翌日には「日本人の「酒離れ」を、ちょっとだけ深読み」という記事を投稿されており、庄内さんがこの件に大きな関心を寄せていることがわかります。庄内さんご自身もかつては毎日飲んでいたそうですが、現在ではほとんど飲まなくなり、「今年になって酒を飲んだのは、昔の仲間と集まった時の2度しかない」という断酒erから見れば典型的な機会飲酒者になっています。上手くお酒と「別れる」ことができた方と言えるでしょう。

さて庄内さんも紹介していますが、1999年と2019年の飲酒率を比較すると以下のようになります(もともとのデータはニッセイ基礎研究所のサイト)。

若者の「酒離れ」はよく指摘されるところですが、それはデータでも裏付けられています。

これをどう捉えるか、ですが、もちろん経済的な要因もあるでしょう。少子高齢化に伴う社会保障費や税負担の増加により可処分所得が低下しているため、物理的にお酒を飲む余裕がないという現実があります。この状況は、これから老いに向かう私たち世代にも共通しており、まさに酒は「貴族の飲み物」と化しています。ただ私たち世代とは異なり、若者たちは最初から「飲まない」という選択をしているため、「金はないけど酒は飲みたい」といったみっともない状況にはならないのがうらやましいです。それが生き方として一つのアドバンテージにもなっているのでしょう。

もう一つの理由としては、酒を飲むことによって得られるものが相対的に小さくなっている、という点が挙げられるのではないでしょうか。

私たちの世代では、酒を飲むことによって広がる社交が人生に何らかの恩恵をもたらす、という意識が一応はありました。自分自身の人生を振り返ると、それが本当にあったのかどうかは疑問ですが、社会通念としては確かにそのような考え方はあったのです。

組織に勤めている人が大半だった時代では組織の「和」が重視されており、酒を通じてその和に貢献することが、昇給や定年までの雇用に繋がると信じられていました。嫌々でも酒を飲む意味があったわけですね。私のように酒が好きな場合は飲めること自体が嬉しかったし、それが「付き合いが良い」と評価され、まさにウィンウィンの関係が築けていました。また若手社員が会社の飲み会で自腹を切ることは、バブル崩壊後もしばらくはなかったと聞いています。私はバブル期にフリーになったので伝聞ですが。

「飲酒による社交」が意味のない時代

しかし現在では飲み会は割り勘が当たり前で、律儀に参加していても突然リストラされる可能性はもちろんあります。つまり組織は酒を通じた社交、さらには組織の「和」に対する貢献をまったく評価しなくなっています。気乗りしない飲み会に参加しても、割り勘で無駄なお金を使うだけです。

社会全体として考えても同じでしょう。酒を通じて広がる社交のコストパフォーマンスが著しく低下しています。限られたリアルなつながりよりも、Google先生に評価される努力をした方がよほどリターンが大きい時代とも言えます。そして、そのためには時間を味方につける必要があり、その時間を生み出すのは「酒を飲まないこと」です。

とまあ、酒離れにはそのような構造的な問題があり、それを認めたくないのはメディアと酒造会社であり、こいつらはタッグを組んで酒を飲ませようとするけど、それにどう対抗するか、ですよね。

となると、なーんだ、酒飲まないって結局のところ若者の「属性」である既存社会への反抗ないしは挑戦じゃんという結論になったりします。

私は馬鹿なので酒飲むことが自由だ、社会への挑戦だーと考えていましたが(参考「思えば酒に口をした瞬間から「社会の奴隷」化が始まっていたのかもしれないね、という話」)、飲まないことこそ「挑戦」だということを若者は本能的にわかっているのかもしれません。そしてそうした若者が自己実現できるのでしょう。まさに下戸、あるいは意識的な下戸(=ソバーキュリアス)が勝ち組の世の中が到来したと言えるでしょう。

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