アルコール依存症と断酒と一神教と多神教と。

酒やめて、1692日。

酒という一神教に対抗していくためには

アフガニスタンを制圧したタリバンに代表されるイスラム原理主義が再び世界を揺るがしています。信仰あるいは彼らの正義のためなら自爆テロもいとわないという考え方は、世界は到底受け入れられないですし、こうした考え方と、無宗教であり、それゆえに神をも畏れぬ国である中国が結びつくことにも大きな危惧を覚えます。

なんて、断酒ブログの分際でこんなこと言っても詮ないのですが、しかしイスラム原理主義と、アルコール依存症は非常に似ているように思うのです。

つまりアル中、アル依、そこまでいってなくても毎晩大量に飲む人は、酒という神のためなら、他者に迷惑をかけようが他者からどう思われようがいとわないという価値観を持ちがちです。もちろん私もそうでした。酒を飲むことがすべてに優先する、まさに一神教、そして酒原理主義です。

もっとも一神教でも、たとえばキリスト教のプロテスタントにおける、日々の生活の中に信仰や教えがあるという考え方は、ちょっと多神教的なのかもしれないなあと日本人としては思ったりもします(参考「飲酒生活と断酒生活をカトリックとプロテスタントになぞらえてみると」)。実際、実践者≒メソジストという名の宗派もありますし。日本だと青山学院がそうですね。

で、それと同じように、日々の実践の中に信仰がある……というとおかしいですけれども、日々の実践の中に真実を見つけるという点では、断酒がまさにそうなのですよ。

日々の実践というのは、たとえば仕事をしたり家事をしたりということですし、ランや筋トレなども含めてもいいかもしれません。こうしたことは、脳内快楽物質=脳汁の出方は飲酒に比べると非常に少ないです。でも、いつも書いていますけれども、確実に出るんです。飲酒習慣があるときはまったく気づかないけれども、やめると、あーこんなことでも脳汁が出るんだなあとはっきり感じることができます。これがやはり非常に大きいかと。

だからこうした日々の実践の足し算で、飲酒による脳汁の噴出と同等にしていくという方法は、それこそメソッドとしてありだと思うのですね。一つ一つの小さな神様の力で、酒という一神教の神に打ち勝つということです。

「トイレの神様」に共感できれば断酒もできる!?

そういえば「トイレの神様」という曲が昔、流行りました。トイレには神様がいて、トイレを綺麗にする≒その神様をリスペクトすることで(外見だけじゃなく内面も)べっぴんさんになれるという趣旨です。

流行っていた当時、私は酒を飲んでいたので、トイレに神様がいるなんて、んな馬鹿なことがあるかいっと失礼ながら思っておりましたが、今ならこの曲のいわんとするところが非常によくわかるのです。

ほんと、トイレを掃除していても、しょぼしょぼながらも脳汁が出てくれますし、それを感じることがやっぱり人生上手くやっていくコツなのではないかと。もっと言えば、この曲が流行ったということは、もともとの日本人の価値観に合致していたのでしょうし、こうした曲に共感できる日本人は、酒がやめやすいのかもしれません。

さらに言えば、イスラム教のような強烈な戒律のある宗教が酒を禁じているのは、それが彼らの神に匹敵する神になる恐れがあるからなのかもしれません。

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