日本は本当に「ビール街」と「ジン横丁」の社会になってしまったんだなあという話。

酒やめて、2738日

中島らもさんも指摘していた、酒を「道具」にするということ

一昨日、「「生きれば生きるほど生ビールはうまい!」という提案(?)がとんちんかんに思える理由」といった話を書かせていただきました。「生ビール」を心の底から「うまい!」と言える状況にある層はどんどんシュリンクしているよね、ということです。

心の底から美味しい、というのは「ビール街」的な飲み方です。このブログでも度々触れていますが、酒の飲み方には「ビール街」なるものと「ジン横丁」なるものがあり、「ビール街」は主に富裕層が人生に彩りを添えるために飲むという飲み方、「ジン横丁」というのはその反対で人生が辛いからジンに逃げるしかないという飲み方です。もともとは18世紀のイギリスロンドンの在りようを描いた風刺画ですが(下参照)、この二つの飲み方が示す様相は現代の日本にもあてはまるんじゃね、という話は度々させていただいております(参考「「ジン横丁」に描かれた18世紀のイギリスに、今の日本があまりにも似てきていてヤバいんじゃないかという件」)。そして今回もそこのところの深堀りではあります。

「ビール街」……富裕層が人生を楽しむためにビールを飲む。

「ジン横丁」……貧困層が人生を忘れるためにジンを飲む。

たとえば寝酒――ナイトキャップは文化だとも言われますが、アル中大先輩である中島らも先生の分析によれば、それは酒を「道具」としているわけで、ということは「ジン横丁」飲みになります。これなんぞは、丸谷才一先生ならば「キリスト様だってそんな残酷なことは言わなかった」になるのではないでしょうか。そして「楽しみ」すなわち「ビール街」的飲みと「道具」すなわち「ジン横丁」的飲みの間にはグレーゾーンがあって、ここが難しいところであります。

私の場合、完全に酒が道具(「ジン横丁」飲み)だったので、やめなければどうしようもなかった、だからこそやめられたという側面はあるのですが、私とてグレーの時代(客観的に見ればブラックなのかもしれないが漆黒まではいってない)はあったと考えられ、そのくらいのときにやめられたらなあ、とも思うのです。

ともあれ、グレーゾーンが存在しているところが断酒を志す者にとっては悩ましいところではあったのですが、ただ、今の世の中、「ビール街」「ジン横丁」がくっきりはっきりしていく方向に進んでいるとは思います。

借金しながら飲むのは、すなわち「ジン横丁」でしょう

なぜこのようなことを言うかといえば、最近象徴的な事例に接したからです。

私の仕事上の先輩で、事情があってまとまったお金が必要になった人がいます。その人は、銀行や消費者金融などからは借りすぎていて(?)借りられないのでしょう、周囲に貸してくれないかということを持ちかけています。

ただ、そうやって借金を持ちかけながらも、飲むのはしっかり飲んでいます。そして私が夏はノンアルコールビールを飲むと言うと、それは未練がましいと因縁をつけて(?)きたりもしています。さらに自分はアル中じゃないし、適正量しか飲まないから楽しく飲めると常々無駄にアピールしています。

それはいいのですが(よくないが)、借金しなければならない状態なのに飲んでいるというのは、これはもう完全に「ジン横丁」でしょう。

いくら飲む量が適正であり身体的に飲めたとしても(脳への影響を考えると適正量などないのだが)、社会的には飲んでいる場合じゃないの範疇に入っていると考えられる――。と、まあそんなふうに感じたのですね。余計なお世話ながら。

余計なお世話ではあるけれども、もはや酒は酒、借金は借金といったような幸せな時代は終わり、自分の社会的な状況と飲酒するかしないかがきわめて密接に結びついていて、「ビール街」と「ジン横丁」もきっちり線引きできる、そして「ジン横丁」飲みに当てはまる事例がどんどん拡大している世の中に突入したと考える次第であります。

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