酒やめて、1694日。
イラン人は普通に酒を飲む!?
一昨日、イスラム教について若干触れました。それで思い出したのですが、80年代後半から90年代の初めにかけて、日本にはイラン人の出稼ぎ労働者がたくさんいました。上野でテレフォンカードを売っていたなんていうのは、今ではなんだか過去の風物詩のように語られ、偽造テレカの問題もあったりしましたけれど、普通に働いている人もたくさんいたのです。そして当時、私はそのなかの一人と路上で酒を回わし飲みをしたことがあります。そんな無頼な俺ってかっこいい……と意識はしていませんが、心の底でなんとなく思っていたような気がします。完全な馬鹿です。
ちなみにイラン人はイスラムといってもシーア派であることはよく知られています。もちろん酒は基本的には禁止なのですが、厳格なスンニ派と異なり、少なくとも日本では、彼らは普通に飲んでいましたね。
確かサッカー評論家の後藤健生さんだったと思いますが、サッカーを観ていてるとサウジアラビアのようなスンニ派の国とイランのようなシーア派の国では応援スタイルも違うし、文化そのものが違うことがよくわかると書いていました。
サッカー日本代表がアウェイでサウジアラビア戦を戦う時は、サウジの観客のほとんどがトーブと呼ばれる白い衣装を着て黙って観戦している。一方イラン戦においては、あの有名なアザディ・スタジアムでサポーターが「イラン!」と唱和し、それは「ニッポン!チャチャチャ」や「U・S・A!」と同じで、イラン人は(砂漠の民ではなく)都市の民だ、というふうに書かれていたと思います。
そんなふうに教えられてみると確かにそうですね。ですからメンタリティは西側諸国とちょっと似ているのかもしれません。日本でなら、酒の路上回し飲みもできるわけです。ということはまったくの余談ながら、親米だったパーレビ王朝を失ってしまったのはアメリカの、アフガンの一件などとは比べものにならない世界戦略上の大失敗だったのでしょう。
一般人にとっては、飲酒は無頼の最たるものか
それはともかく、今と違って豊かだった80年代の後半から90年代の初めにかけての日本では、路上回し飲みは極端にしても、そうした無頼な行為が社会全体で幅をきかせていました。それよりも前、今でもお元気に無頼にデモなどやっている団塊世代が若かりし頃はもっとだったでしょう。
さて時代が移り、ここのところのコロナ禍においては路上飲みなどは社会的悪とされるようになりましたし、それ以前に何よりもコンプライアンスが厳しくなり、社会において無頼なる行為が軽蔑の対象になっています。
そしてこういうとファンの方には大変申し訳ないのですが、勇気を振り絞れば、椎名誠氏の小説の無頼ぽい一節などは、今読むと激しく違和感ですもんね。ただ椎名先生の場合、そうした行為を無頼の対極にある冷徹な頭脳で物語に仕立てているのですから、我々のように単に無頼を気取っていただけの人間とは天と地も違うのですが(汗)。
今は社会全体がIT革命の影響も当然あると思いますがスマート化していて、「無頼」という価値観を排除されている。それがコロナ禍によって決定的になったということですよね。
そしてその「無頼」の最たるものは、一般人にとっては、冒頭に挙げたような飲酒がからむことです。そのように考えると、このスマートな世の中で、そしてコロナ禍で、酒という存在はテレフォンカード同様、過去の遺物になりつつある、といった三段論法(?)も成立するのではないかと。