酒やめて、1144日。
次長課長・河本とナイツを対比させると、メタ認知が理解できる!?
メタ認知という言葉を聞いたことがあると思います。メタとは「高次」という意味で、もう一人の自分がより高いところから自分を認知するというふうに説明されます。要は自分を客観視するということですよね。これが社会人のスキルとして、とても重視されているそうです。
今まさに話題になっている『100日後に死ぬワニ』にしても、「100日後に死ぬ」というメタ視点を読者が持つことで、あのどおってことないお話が俄然意味を持つ、と分析されています。
ただ、こうした資質の重要性は人類の歴史とともにあって、それができる人間がこれまでも社会的に成功を収めてきたのでしょう。それが今あらためて注目されるのは、やはりグローバル化と無関係ではないと思います。いや、グローバル化に限らず社会が多層化複雑化し、いろんな価値観を持った人間と協働しなければいけないからこそ、自分を客観的に見て、それを自分の行動指針にすることが大切だということのようです。
ちょうどいい反面教師がいます。
数日前に芸人の河本準一さんが、子どもと一緒に散歩中の父親が赤信号で横断歩道を渡ったのを目撃し、自らのブログで「苦言を呈した」ことが話題になりました。むろんその指摘自体はなんの問題もないでしょう。しかし、当然ながら反発を買いました。自らの母親が生活保護を不正受給していて、高額所得者ながら「もらっとけばええやん」で社会問題を引き起こした過去があるからです。「お前がモラルを言うな~」「それ、自分の立場を悪化させるだけやろ~」という声がネット上で巻き起こりました。そりゃ普通に考えても「逆効果」ですよね。河本さんにとってトクなことなんて何もありません。なのに発信してしまったのは、やはりメタ認知ができていなかったということでしょう。
あともう一つ、私が個人的に違和感を覚えたのは芸人としての姿勢です。「噺家は世情のアラで飯を食い」という言葉があります。落語家のことを言っていますが漫才師を含めた芸人全般に当てはまると思います。そうである限りは、「世情のアラ」を取り扱うにあたってひねりを効かすことが期待されているわけじゃないですか。それを単純な批判にしてしまうのは、あまりにも芸がないやろーてことです。
このあたり、私が個人的に大好きなナイツなんか、実にわかってると思いますねー。ナイツは典型的な「世情のアラで飯を食い」芸人ですが、その「世情のアラ」に対する距離感ととらえ方が絶妙なのです。で、河本事例とナイツ事例を対比させると、「メタ認知」というものが私のような者でもすんなりと理解できます……て、そういう理解でいいのかどうかわかりませんが、そんなに間違ってはないでしょう。
「主観的」は排除される時代に!
ともあれメタ認知の重要性は、普通に社会で仕事していても感じますよね。「エビデンス示せエビデンス@上司」もその一局面かもしれませんし、「誰もお前の意見なんか聞いてねーんだよー@上司」もそうです。つまり主観で仕事をするなということです。
そう。メタ認知=客観視と定義すれば、その反対はやはり主観的になります。で、ですね、どうしても飲酒習慣は主観的な人間性を醸成しやすいという話をしたいのであります。
主観的というのはわがままともちょっと違いますけれども、自分中心に考えることですよね。飲酒習慣はこれを助長します。
まず、理性を司る=メタ認知しようとする前頭葉がアルコールでダメージを受けるからそうなってしまう、つまりキレる老人と根が一緒ということもあります。
もう一つはですね、これは私も経験があるのでとてもよく分かるのですが、考え方の習慣として主観的になるのです。
アル中もそうですし過飲酒者もそうだし自分が適正飲酒だと思っている人もそうなのかもしれないですが、飲酒者は自分の飲酒をどうやって正当化するかということを常に考えているんですね。飲酒する自分は正しいと規定するのが習い性になっている。そうじゃないという人もいるかもしれないけど、大なり小なり、意識するにせよしないにせよ、どこかでそう思っているのではないでしょうか。
で、その「自分が正しい」という潜在意識のようなものは他の局面でも出てくるように思われます。それが極端な話、主観でしか話ができない人間になるということで、メタ認知できないということにもつながると思うのです。
これは断酒者としての俺様理論(まさに主観ですなw)なのかもしれませんが、メタ認知ということと飲酒習慣は折り合いが悪いのは事実でしょう。メタ認知がことさらに重視される時代と社会だからこそ飲まないという判断はあると思いますねー。