酒やめて、2878日
ダンディズムとしての「贅沢」!?
大昔、私の学生時代ですが、雑誌『ブルータス』が「贅沢は素敵だ!」という今考えればはなはだ身勝手な特集を組んでいました。そしてそこには学生には到底手が届かない、文字通り贅沢なモノが並んでいたのですが、一方でたとえば大倉喜七郎や淀屋辰五郎の生きざまも紹介し文化的な側面から「贅沢」を考察していました。当時は日本がバブルという経済的絶頂に向おうとする端緒ともいえる時期であり、そして「贅沢」というものに日本人が初めて向き合った時代だったように思います。
そもそもその「贅沢」というものの文化的側面を世に初めて呈示したのは、私の考えでは山口瞳さんで、それはやせ我慢のダンディズムとでもいうものでした。その系譜に伊丹十三さんや景山民夫さんもいるのでしょう。
お金があるとかないとかではなく志として贅沢を心がける。そうした価値観がその当時は必要だったと考えられます。
というのは当時、社会の第一線でバリバリ働いていたのは戦争を経験した世代、「贅沢は敵だ」世代で、彼ら彼女らには当然、贅沢に対する心理的な抵抗感があったと思われます。それが日本の主流を成すメンタリティだったからこそ山口さん的な価値観が目新しく(山口さんの著作『江分利満氏の優雅な生活』のテーマもそこにある?)、また雑誌も特集を組んだりしたのでしょう。
消費ではなく生産の時代!?
そして私などはきわめてミーハーでしたので、少なからずその影響を受けました。その頃、ブランドブームといったものもありまして、それを支えているのは広い意味での消費ですよね。すなわち我々は消費世代だったわけです。
ところが今は違います。もはや消費することは美徳でも何でもありません。というか、もうこのご時世においては悪徳と言っていいかもしれません。
その背景には当然ながら日本全体が貧乏になってきたこともあるでしょう。そして日本経済だけに依存していてはサバイバルすらできなくなりつつあるなか、世界経済の成長に「乗る」ためのものとしての投資のプレゼンスが高まり、その資金をつくることが以前にもまして重要である……なんてことは、今さら私のような者が指摘するまでもないですね。
もう一つは、すべての人がICTというインフラをベースに「生産」できるようになっていて、その生産によって生き方の自由を得る、得られるというふうに価値観が転換していることがあります。いや、これはもうコペ転と言っていいものだと思うのですよ。
一方で、時代遅れになりつつある消費美学の場――たとえばホストクラブやキャバクラなど「お金を遣うことを競争する」場には、そう、必ず酒がくっついています。
つまり、消費が美徳であった時代の「贅沢は素敵だ!」とともに酒はあった。そして生産することこそ素敵な贅沢である時代においては、それと縁を切るに越したことはない、といったことを言いたいのでありました。
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