酒やめて、3200日

「立ち止まる」のが許される人とは……
世の中には、タイトルに記した「これまでがむしゃらに走ってきたのだから、ここで一度立ち止まって自分を見つめ直そう」的なドラマツルギー(?)が存在しています。これは純粋に精神論として語られることもありますが、コマーシャルなどで利用されることも多いようです。たとえば旅行関連のコマーシャルだったら、「(旅に出て)自分を見つめ直す時間を持とう」、酒のコマーシャルだったら、「ここらで一杯、自分にご褒美をあげよう」みたいな応用ですよね。
こうした考え方は高度経済成長時代の終わり頃、「モーレツからビューティフルへ」というムーヴメントの中で出てきたものであり、それがいまだに価値を持っている、あるいは「利用」されているというふうに思います。
高度成長時代、日本人はがむしゃらに働いてきてようやく豊かになり、それを享受していた矢先、バブル崩壊というかたちでご褒美としての豊かさを手放してしまった。ついでに世界のなかで奇跡的に上手くいっていた「日本モデル」を壊してしまった。そして失われた40年に突入してしまうわけですが。まったく責任者出てこーい! ですよ。誰だか明らかですが。
とまあ、そんなことを断酒ブログで言っても詮ないので、それはともかく「がむしゃらに走ってきたのだからここで一度立ち止まる」ですが、当然ながらこれは、がむしゃらに走ってきた人だけに与えられる権利というか恩恵です。
私のような元アル中はといえば、がむしゃらに走ってきたわけではなく、その代わりに酒を飲み時間をつぶし、今、その膨大な時間に思いを馳せると恐れおののくばかりでございます。
ただし、いつも書かせていただいているように、小泉竹中改革までは、仕事時間だけ「がむしゃら」を実践すれば、それ以外の時間は酒を飲んでいても、社会や組織はそれに応えてくれていた。だから団塊世代より上の世代は、そうしたスタイルを以て「がむしゃらに走って来た」と胸を張るのでしょう。
しかし今は、本業以外のことに作業量を突っ込めなければ、サバイバルさえもままならない社会構造に突入しつつあります。
「がむしゃら」が価値を持つ時代になったのだから
ただしこの局面にもまた断酒者特権が適用されるのではないかと勝手に考えるのですよ。どういうことかというと――。
アル中→断酒者は、今まで「がむしゃら」になるべき時間を無駄にしたのだから、この無駄にした時間に思いを馳せ、それを取り戻していきたいという決意を新たにすることができます。つまり、人生における「立ち止まり」はもう終わったのだ、今こそ「がむしゃらに走り出す」ときだと自覚できる。おりしも日本初の女性首相が生まれ、その彼女が、馬車馬のように働くと宣言したことですし、それから勇気をもらうことだってできる(参考「「馬車馬のように働く」ことがかつてないほど価値を持っている世の中にあって、酒さんの価値は……、という話」)。
そして今は、繰り返しますが「作業量しか勝たん」時代、AI化やICT化を背景に、たとえ才能や感性に恵まれてなくても、その作業量ベースに継続することで成功できる時代ですよね。「がむしゃら」になることがより大きな意味を持つ時代に断酒できた。この「特権」を噛みしめたいと思います。
あ、言うまでもないことですが、高市さんのようにノブレスオブリージュを課せられた人は本業をがんばってもらわなきゃいけないのですが、我々は、本業は、見返りがあるのなら「がむしゃら」に、そうでないのなら「ゆるーく」、自分のための副業や勉強や投資は「がむしゃら」になればよいかと。
原則として火曜日と金曜日の19時に更新しています。
カテゴリ別インデックスページはこちらです。
